今日は「阿寒に果つ」です。
実は読書家です。
好きな作家は、司馬遼太郎、池波正太郎、藤沢周平、宮本輝、遠藤周作、渡辺淳一、松本清張、山本周五郎、ねじめ正一、三浦しおん、姫野カオルコ等です。
とくにこの六人、司馬遼太郎、池波正太郎、藤沢周平、宮本輝、遠藤周作、渡辺淳一さんの作品はほとんど完全読破しています。
しか〜し渡辺淳一の作品の中で「阿寒に果つ(あかんにはつ)」は私にとって「禁断の書」だったのです。
なんで「禁断の書」のかと申しますとある女子高生の自殺話だったからです。
しかも自殺した女子高生は作者の恋人ですからね。
作者も本文の序章で、「間違いなくあれは冷たく孤独な死であった。最果ての、誰にも知られぬ死であった。
しかし死は誰にとっても独りのものである。
大勢の人に看とられようと、ただ一人で原野に果てようと、死は死んでいく人だけのものである」と虚無的にのべていますように実話です。
それに加えて18歳の少女の雪中の自死ですからね・・・
18歳=若い、少女=悲恋、雪=純白、自死=哀れ、とこの言葉から帰納される私の結論は「悲しみに満ち溢れる」小説ということになります。
感情の抑制が苦手な私はこのような明らかに悲しい物語を読む事は苦手なのです。
したがいまして「禁断の書」にしていたのです。
今回色々な偶然が重なり読んでみました。
まず本書の粗筋の紹介です。
雪の阿寒で自殺を遂げた天才少女画家・時任純子。
妖精のような17歳のヒロインが、作者の分身である若い作家、画家、記者、カメラマン、純子の姉蘭子と演じる六面体の愛と死のドラマ。
汚れながらも純潔を守り、17歳で夭折した天才美少女画家時任純子。
著者の自伝的な要素を踏まえながら、一人の女性への思いを綴った悲恋小説の傑作である。
加清純子(文中では時任純子)さんの阿寒の雪の中での死は、雄阿寒岳の画が開いた芸術活動を、雄阿寒岳の絵で閉じ、そして雪の結晶の中に自分を閉じ込めることで、永遠に同級生の心に六華(在学していた札幌南高等学校のアイコン=雪の結晶)の印象とともに刻んだことになります。
渡辺淳一さんは後に「あの死は驕慢で僭越な死ではなかったのか。すべてを計算しつくした小憎らしいまでに我儘な死ではなかったのか」と述べられている様に、この死の為にすべてが仕組まれた奔放の愛憎劇なのです。
Storyteller(筋の面白さで読者をひきつける作家)として卓越した才能をもつ、渡辺淳一さんの筆致ですので、437ページの長編小説ではありますが、3時間強で読破してしまいました。
読後感想と申せば超面白かったのです。
しか〜し数日後、この記事をみて愕然としました。
「純子には、数年前に亡くなってしまったが兄が一人いた。加清準(ヒトシ)といい、私が大変世話になった北大同窓会の会長をも勤めた札幌経済界でも影響力を持った人物であった。
生前そのおじ貴に純子の本当の死因を訊ねたことがある。
えらぶることも着飾ることもないおじ貴がぶっきらぼうに言った。
『死因は大学受験の悩みだろう』 幼いころから天才と注目された少女の周囲からの注目度と現実のギャップがあったのであろうか。
おじ貴が渡辺淳一に会った時に冗談半分で一言云ったという。
『あまりいい加減なことを書くなよな』 小説に書かれた純子は、18歳の少女にしてはあまりに淫媚に描かれ過ぎていた。
この小説は、渡辺淳一が純真な少年であったがために純子にからかわれた末の妄想であると思う。
しかし、その妄想をひとつの作品として文学に創作してしまうのは、渡辺淳一の才能であろう」
本フリネタ、山花咲野鳥語ブログ・札幌南高13期東京同期会ブログ参照
え〜これってノンフィクション小説ではないのですね。
渡辺先生に完璧にやられました・・・
これと同じ思いは中学生の時に読んだ司馬遼太郎先生の「竜馬がゆく」でした。
私は「竜馬がゆく」はず〜っとノンフィクション小説だとおもっていたのです。
さすがに調査の司馬遼だ、良く文献をしらべているな、と感動していたのです。
ある時に何かの司馬遼太郎先生の文の中で、坂本竜馬は私が作った坂本龍馬です。
まぎらわしいのであえて名前を坂本竜馬という自らが作った架空の名前にしたのです、という断りを見つけて、この名著がフィクション小説だとわかったのです。
同様に今回「阿寒に果つ」は、久々の驚きの邂逅でした。
かつての少女たちのなかで、純子は間違いなくきわ立った存在であった。
五百余名いた女子生徒のなかで、純子の美しさは群を抜いていた。
いや単に学校だけでなく、札幌という街にいた少女達のなかで、時任純子(加清純子)ほど華麗な存在はなかった。
美しさ故に、純子は少女達の女王様であり、さまざまな男達の上に君臨していた。
それは当時まだ高校生であった私だけの錯覚ではなく、その時、純子の周りをとり巻いた、老若全ての男達が信じたことだった、と作者は、紹介しています。

上記の画像は高校のときの加清純子さんと渡辺淳一さんです。
けっして故人を穢(けが)すつもりではありませんが、皆様の客観的評価を仰ぐものです。
とくに加清純子さんは一番よく撮れている画像を選びました。
さらに渡辺淳一さんは文中で、ちょっとハンサムで、できる子なんだけど。ことさらにあたしを無視しようとするの、って時任純子(加清純子)さんに自らの事をいわせていますが、ちょっとね〜であります。

個人的には時任純子さんはこの画像のイメージで宜しいのではないのでしょうか。
この名著「阿寒に果つ」ですが、小説そのものは面白くて傑作だと思います。
時任純子(加清純子)さんを基軸とするbohemian love storyです。
そしてこの小説の背骨は渡辺淳一さんの自慢話で構成されています。
言い換えますと渡辺淳一さんの自己顕示欲充足小説であります。
しか〜し実在している人を実名且つ大いなる脚色で載せていますので、これは一種のtrick(ひっかけ)です。
ある種の私小説ですからね、那辺は作者の良識を疑うものであります。
もしかしましたら渡辺淳一さんは、一種の神経的恐怖症の持ち主で、自分の小説がウケない事が死ぬほど怖かったのかもしれませんね、だから敢えて反響を呼ぶために実名も取り入れたのでしょう。
いずれにしてもキレイに引っ掛かりました、ハイ。
お時間があればご一読ください。楽しめると思います。
ところで小説「阿寒に果つ」の中で主人公の時任純子が、シャンソンの「暗い日曜日」を聴く場面が描かれています。
加清純子も、「暗い日曜日」を聴いていたそうです。
この曲「暗い日曜日」(Sombre Dimanche)は、花束を抱きながらもう来ない恋人を思い、そして自らの死を考えるという歌です。原曲はハンガリーで作られ、フランス語に翻訳され広まりました。日本ではシャンソンとして広まりました。
日本では淡谷のり子、越路吹雪、美輪明宏、戸川昌子、岸洋子、金子由香利、夏木マリ、浅川マキなど多くの歌手によりカバーされています。
この曲を聴く人に自殺者が多いといわれるなど、自殺と結び付けられることで有名な曲です。
それではこの曲をお届けしてこのフリネタを終わらせていただきます。




今日は会津に出没です。
なななんと会津は雪国です。
東京は昨日桜の開花宣言がだされたのに・・・
今日のお店は喜多方ラーメンの絶巓です。
過去何回もお邪魔したのですが、なぜかいつも定休日ではいれませんでした。
今回は満を持しての訪問です。
今日のお店は「喜一
」さんです。
住所: 福島県喜多方市関柴町上高額境田635-7
電話:0241-24-2480
定休日:第1・3金曜日


お店の外観です。

店内の雰囲気です。

お店の歴史です。

メニューです。


今日のオーダー「Sioチャーシュー(並)」@918円です。
待つこと8分で「Sioチャーシュー(並)」の着丼です。
窓から射しこむ光の矢をうけたスープは、目映いきらめきを丼の上に浮かべています。
なんと透明感あるラーメンでしょう。
それでは実食です。
スープは上品な塩味です。
うま味が深いですね。
麺は平打ち太麺で、この上品な塩味によくからんでいます。
特筆するのはチャーシューです。
喜多方では数多くの有名なラーメン店を訪れていますが、何処(いずこ)もチャーシューは後半飽きてきます。
今しか〜しこのお店のチャーシューは、後半になっても艶然としてそのたおやかさを保っています。
これはすごいですね。
個人的にはこのお店「喜一」さんはをking of Kitakata-ramenと言わせていただきます。
自信ありです、キッパリ。
実は読書家です。
好きな作家は、司馬遼太郎、池波正太郎、藤沢周平、宮本輝、遠藤周作、渡辺淳一、松本清張、山本周五郎、ねじめ正一、三浦しおん、姫野カオルコ等です。
とくにこの六人、司馬遼太郎、池波正太郎、藤沢周平、宮本輝、遠藤周作、渡辺淳一さんの作品はほとんど完全読破しています。
しか〜し渡辺淳一の作品の中で「阿寒に果つ(あかんにはつ)」は私にとって「禁断の書」だったのです。
なんで「禁断の書」のかと申しますとある女子高生の自殺話だったからです。
しかも自殺した女子高生は作者の恋人ですからね。
作者も本文の序章で、「間違いなくあれは冷たく孤独な死であった。最果ての、誰にも知られぬ死であった。
しかし死は誰にとっても独りのものである。
大勢の人に看とられようと、ただ一人で原野に果てようと、死は死んでいく人だけのものである」と虚無的にのべていますように実話です。
それに加えて18歳の少女の雪中の自死ですからね・・・
18歳=若い、少女=悲恋、雪=純白、自死=哀れ、とこの言葉から帰納される私の結論は「悲しみに満ち溢れる」小説ということになります。
感情の抑制が苦手な私はこのような明らかに悲しい物語を読む事は苦手なのです。
したがいまして「禁断の書」にしていたのです。
今回色々な偶然が重なり読んでみました。
まず本書の粗筋の紹介です。
雪の阿寒で自殺を遂げた天才少女画家・時任純子。
妖精のような17歳のヒロインが、作者の分身である若い作家、画家、記者、カメラマン、純子の姉蘭子と演じる六面体の愛と死のドラマ。
汚れながらも純潔を守り、17歳で夭折した天才美少女画家時任純子。
著者の自伝的な要素を踏まえながら、一人の女性への思いを綴った悲恋小説の傑作である。
加清純子(文中では時任純子)さんの阿寒の雪の中での死は、雄阿寒岳の画が開いた芸術活動を、雄阿寒岳の絵で閉じ、そして雪の結晶の中に自分を閉じ込めることで、永遠に同級生の心に六華(在学していた札幌南高等学校のアイコン=雪の結晶)の印象とともに刻んだことになります。
渡辺淳一さんは後に「あの死は驕慢で僭越な死ではなかったのか。すべてを計算しつくした小憎らしいまでに我儘な死ではなかったのか」と述べられている様に、この死の為にすべてが仕組まれた奔放の愛憎劇なのです。
Storyteller(筋の面白さで読者をひきつける作家)として卓越した才能をもつ、渡辺淳一さんの筆致ですので、437ページの長編小説ではありますが、3時間強で読破してしまいました。
読後感想と申せば超面白かったのです。
しか〜し数日後、この記事をみて愕然としました。
「純子には、数年前に亡くなってしまったが兄が一人いた。加清準(ヒトシ)といい、私が大変世話になった北大同窓会の会長をも勤めた札幌経済界でも影響力を持った人物であった。
生前そのおじ貴に純子の本当の死因を訊ねたことがある。
えらぶることも着飾ることもないおじ貴がぶっきらぼうに言った。
『死因は大学受験の悩みだろう』 幼いころから天才と注目された少女の周囲からの注目度と現実のギャップがあったのであろうか。
おじ貴が渡辺淳一に会った時に冗談半分で一言云ったという。
『あまりいい加減なことを書くなよな』 小説に書かれた純子は、18歳の少女にしてはあまりに淫媚に描かれ過ぎていた。
この小説は、渡辺淳一が純真な少年であったがために純子にからかわれた末の妄想であると思う。
しかし、その妄想をひとつの作品として文学に創作してしまうのは、渡辺淳一の才能であろう」
本フリネタ、山花咲野鳥語ブログ・札幌南高13期東京同期会ブログ参照
え〜これってノンフィクション小説ではないのですね。
渡辺先生に完璧にやられました・・・
これと同じ思いは中学生の時に読んだ司馬遼太郎先生の「竜馬がゆく」でした。
私は「竜馬がゆく」はず〜っとノンフィクション小説だとおもっていたのです。
さすがに調査の司馬遼だ、良く文献をしらべているな、と感動していたのです。
ある時に何かの司馬遼太郎先生の文の中で、坂本竜馬は私が作った坂本龍馬です。
まぎらわしいのであえて名前を坂本竜馬という自らが作った架空の名前にしたのです、という断りを見つけて、この名著がフィクション小説だとわかったのです。
同様に今回「阿寒に果つ」は、久々の驚きの邂逅でした。
かつての少女たちのなかで、純子は間違いなくきわ立った存在であった。
五百余名いた女子生徒のなかで、純子の美しさは群を抜いていた。
いや単に学校だけでなく、札幌という街にいた少女達のなかで、時任純子(加清純子)ほど華麗な存在はなかった。
美しさ故に、純子は少女達の女王様であり、さまざまな男達の上に君臨していた。
それは当時まだ高校生であった私だけの錯覚ではなく、その時、純子の周りをとり巻いた、老若全ての男達が信じたことだった、と作者は、紹介しています。

上記の画像は高校のときの加清純子さんと渡辺淳一さんです。
けっして故人を穢(けが)すつもりではありませんが、皆様の客観的評価を仰ぐものです。
とくに加清純子さんは一番よく撮れている画像を選びました。
さらに渡辺淳一さんは文中で、ちょっとハンサムで、できる子なんだけど。ことさらにあたしを無視しようとするの、って時任純子(加清純子)さんに自らの事をいわせていますが、ちょっとね〜であります。

個人的には時任純子さんはこの画像のイメージで宜しいのではないのでしょうか。
この名著「阿寒に果つ」ですが、小説そのものは面白くて傑作だと思います。
時任純子(加清純子)さんを基軸とするbohemian love storyです。
そしてこの小説の背骨は渡辺淳一さんの自慢話で構成されています。
言い換えますと渡辺淳一さんの自己顕示欲充足小説であります。
しか〜し実在している人を実名且つ大いなる脚色で載せていますので、これは一種のtrick(ひっかけ)です。
ある種の私小説ですからね、那辺は作者の良識を疑うものであります。
もしかしましたら渡辺淳一さんは、一種の神経的恐怖症の持ち主で、自分の小説がウケない事が死ぬほど怖かったのかもしれませんね、だから敢えて反響を呼ぶために実名も取り入れたのでしょう。
いずれにしてもキレイに引っ掛かりました、ハイ。
お時間があればご一読ください。楽しめると思います。
ところで小説「阿寒に果つ」の中で主人公の時任純子が、シャンソンの「暗い日曜日」を聴く場面が描かれています。
加清純子も、「暗い日曜日」を聴いていたそうです。
この曲「暗い日曜日」(Sombre Dimanche)は、花束を抱きながらもう来ない恋人を思い、そして自らの死を考えるという歌です。原曲はハンガリーで作られ、フランス語に翻訳され広まりました。日本ではシャンソンとして広まりました。
日本では淡谷のり子、越路吹雪、美輪明宏、戸川昌子、岸洋子、金子由香利、夏木マリ、浅川マキなど多くの歌手によりカバーされています。
この曲を聴く人に自殺者が多いといわれるなど、自殺と結び付けられることで有名な曲です。
それではこの曲をお届けしてこのフリネタを終わらせていただきます。




今日は会津に出没です。
なななんと会津は雪国です。
東京は昨日桜の開花宣言がだされたのに・・・
今日のお店は喜多方ラーメンの絶巓です。
過去何回もお邪魔したのですが、なぜかいつも定休日ではいれませんでした。
今回は満を持しての訪問です。
今日のお店は「喜一

住所: 福島県喜多方市関柴町上高額境田635-7
電話:0241-24-2480
定休日:第1・3金曜日


お店の外観です。

店内の雰囲気です。

お店の歴史です。

メニューです。


今日のオーダー「Sioチャーシュー(並)」@918円です。
待つこと8分で「Sioチャーシュー(並)」の着丼です。
窓から射しこむ光の矢をうけたスープは、目映いきらめきを丼の上に浮かべています。
なんと透明感あるラーメンでしょう。
それでは実食です。
スープは上品な塩味です。
うま味が深いですね。
麺は平打ち太麺で、この上品な塩味によくからんでいます。
特筆するのはチャーシューです。
喜多方では数多くの有名なラーメン店を訪れていますが、何処(いずこ)もチャーシューは後半飽きてきます。
今しか〜しこのお店のチャーシューは、後半になっても艶然としてそのたおやかさを保っています。
これはすごいですね。
個人的にはこのお店「喜一」さんはをking of Kitakata-ramenと言わせていただきます。
自信ありです、キッパリ。