今日は「数学に魅せられた明治人の生涯」の話です。
表紙
久々に好きな数学関連の本でも読むかということで手に取ったのが「数学に魅せられた明治人の生涯」保坂正康著ちくま文庫刊でした。
以下はちくま文庫さんの惹句です。
ある新聞の片隅に「ナゾの『フェルマーの定理』を解く」という記事が掲載された。百一歳の老人が三十六年を費やして、その謎に挑んだというのである。
記事によれば、彼は日清・日露を召集兵として戦い、その後は中学教師になり、1930年代には村長も務めた。彼は晩年を、なぜ一見奇矯な試みに捧げたのか。数学の才能に恵まれた一庶民が明大治・大正・昭和を懸命に生き抜く姿を通して、近代日本の哀歓と功罪を描くノンフィク ション・ノベル。


以下はその粗筋です。
明治、大正、昭和を生き抜いた主人公は明治6年(1873年)、度会県(現・三重県)生まれ。
4歳で西南戦争、15歳頃に大日本帝国憲法が発布されました。
これからは学問の時代だという父の方針によって、農家の息子でありながら小学校、尋常中学校へと進むことができた少年は、数学と出会い、数学狂とも呼ばれるほどその面白さに魅入られていきます。
そして、その先の進路を決めるころ、徴兵検査に合格、21歳で出征。
日清戦争です。
戦地での出来事は、戦う敵も自分と同じように未来を思う人間であることを彼に深く刻みつけ、彼の考え方に影響を与えました。
 
その後、彼はいくつもの戦争を体験することになります。
初めは見送られる立場、やがては若者たちを見送る立場として。
次第に日本が軍国主義へと向かい、市井の人々もそれぞれの思想に突き動かされ、あるいは翻弄されるなか、教師として村長として世間とかかわりながらも、数学という世界を持つことで自分自身を保ちつづけることができた彼は、常に冷静に世間を見つめていきます。
戦争へ向かう熱狂のなかにあって冷静でいることは、たったひとりで戦うということでもありました。
理のない戦争に駆り立てられていく流れに絶対に与しない。
誰に明かすこともできず、理解されることもないその戦いを戦い抜くために、彼はフェルマーの定理に取り組み続けます。
時に彼にとっての理想であり、逆に反発を覚えたりしながらも常に彼の中に存在し続けていたフェルマーに挑み続けること30余年。
証明を終えることは、彼の中に刻まれた幾人もの人たちの生と死を思うためのものともなっていきます。
粗筋内容は「ゆっくりと世界が沈む水辺で〜きしの字間漫遊記〜」さんのblogより転載


完璧な数学本だと思って読んでいましたら、主人公は日本の戦争政策に賛成できないという意思表示を「フェルマーの定理」を解くことで表したかったのですね。
藤原正彦さんの書物にでてくるようないわゆるstereotypeの数学狂ではなく婉曲的な反戦者の一生ということで読みかえることができました。名著です。

文中の中から二か所を紹介します。
まずは「死んで償いを」という項からの抜粋です。
その夜遅く、収入役が学介の家をたずねてきた。ふところから封書を出し、「一応、村長に辞表をお渡ししておきます」 と言って逃げるように帰っていった。辞表というわりには封筒の中は重かった。すでに村長の座にはない学介は、その封筒を開封するのをはばかった。 
明け方、収入役が自宅の居間で首を吊っているのが、新聞配達の少年によって発見された。奥の寝室では、妻が農薬をあおってすでに死んでいた。家の中はきれいに整理してあり、テーブルの上には息子の写真があった。遺書はどこにも見当たらなかった。 
寂しい葬式であった。多忙で……と農民はほとんど出席しなかった。収入役に好意をもっていたとは思われたくなかったからだ。学介と書記とふたりで棺を村の墓地にはこんだ。明治の末に村に住みついた収入役の家には墓がなかった。村の共同墓地に埋葬するのさえ反対する声があったが、学介はその声に耳を傾けなかった。

これは収入役の自慢の東京帝大卒の息子が共産主義者(文中ではアカと呼称)になりその責を取って両親が自殺(自殺の理由は、本当は違うのですが敢えて割愛)したのです。
昔はこのような連帯責任、所謂世間様に顔向けができないという風潮があり、あらためてこの実際におきた道義的自殺に驚かされました。
所謂「村八分」論理からきているのでしょうが、全体主義換言すれば挙国一致体制の弊害です。
加えてこの不幸を積極的に後押しをさせた軍国主義は唾棄すべきものと断じます。

そして「中国からの便り」という項からの抜粋です。
あと二枚も雑誌からの切り抜きだった。やはりこれにも日本語の訳がついている。日本への留学生か支那に帰って発行している雑誌のようだが、それを読んでいるうちに妙な気持ちになった。時計が逆に回りはじめた感じがしてくる。そこには〈学介のこと〉が書いてあったのだ。 
「中国人と日本人は仇敵ではない」と文章ははじまり、筆者が、東京に留学していたころの話として、たまたま日本の子供たちや無頼漢に囲まれいやがらせを受けたが、そこを人力車で通りかかった青年が助けてくれたというのである。青年は、無頼漢に殴られ、蹴られても、じっと耐えて、自分たちを守ってくれた。青年は立ち上がると、そのまますたすたと歩いていったが、筆者が忘れられないのは、青年が「すみません」と一言謝ってくれたということだ。無礼な日本人がいるのを、青年は筆者に謝ってくれたのだ----そんなことが書いてあったのだ。

これは主人公が教師となって甲府に赴任する途中浅草に観光で立ち寄った時に、実際にとられた勇気ある行動です。
明治の人というのはこのような骨太のところがあり、この行動にはとても感銘をうけました。
明治は遠くになりにけりではないのですが、このようなDNAが今も我らに連綿とつながっていることを願うところであります。

非常に長文になりましたが“たまに読むならこんな本”ということで紹介させていただきました。

遠い地平線が消えて、ふかぶかとした夜の闇に心を休める時、
はるか雲海の上を音もなく流れ去る気流は、たゆみない宇宙の営みを告げています。
満天の星をいただく、はてしない光の海をゆたかに流れゆく風に心を開けば、
きらめく星座の物語も聞こえてくる、夜の静寂の、なんと饒舌なことでしょうか。
光と影の境に消えていったはるかな地平線も瞼に浮かんでまいります。

これを生で聞きながら勉強したり読書をしたりしていました。
「きらめく星座の物語も聞こえてくる、夜の静寂の、なんと饒舌なことでしょうか。」
この一文のすごいこと、日本語の言霊というものをあらためて感じさせてくれます。
城達也さんと同じ時空を共有できたことを無上の幸せと思っています。



今日は栃木に出没です。
たまには美味しい蕎麦でも食べるかという事でお訪(とな)いを入れたのはこちら地元では絶大の評価を得ている「大倉」さんです。

住所: 栃木県上都賀郡西方町大字真名子597−1
電話:0282-92-2516
定休日:木曜日

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お店の外観です。

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メニューです。

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今日のオーダー「もり」@500、「もつ煮」@450円です。
ここの蕎麦はとことん手打ちにこだわったこしの強い蕎麦です。
さらにここのこだわりは、満足いく蕎麦が打てなかったときは、満足できる蕎麦が打てるまで決して蕎麦はださないそうです。
それでは実食です。
蕎麦はうす黒い色で粒粒が微かに入っている田舎蕎麦です。
蕎麦を一口入れて歯噛みしてみると、それほどコシの強さは感じられないものの、咽越しはツルンとしており美味しくいただけます。
蕎麦汁は少し味醂の強さを感じますが、この蕎麦にはよくあっています。
薬味と山葵をのせて一緒に手繰れば味がさらに引き締まります。
ウーンこれは美味しいですね。

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Side dishのもつ煮ですが、これは良く炊けていて絶品です。
良く炊けているので、もつはホッコリしておりさらに程良い弾力が口内で踊ります。
ウーンこれまた美味しいですね。

ちなみに私のここでのお勧めは、天ざる、ちたけ、カツ丼ですか。
決して裏切りません、自信あり

それでは(^_-)