#本能寺の変 最大の謎 ― 信長はなぜ信忠に「逃げよ」と命じなかったのか

本能寺の変については、「なぜ光秀は謀反を起こしたのか」「黒幕はいたのか」といった議論が数多くあります。
しかし、私が以前から最も不思議に思っているのは、そこではないのです。
信長はなぜ信忠に「堺へ逃げよ」と伝令を送らなかったのか。
私は、この一点こそ本能寺最大の謎だと思っています。
一般には、本能寺が急襲され、信長は応戦し、自害したと説明されます。
しかし、本能寺から脱出した者がいたことは史料からも確認できます。
つまり、完全に包囲されていたわけではありません。
裏側は高家の家が密集していて明智軍は手薄だったのです。
であれば、信長は一人の伝令に、
「信忠に伝えよ。京都を離れ、堺あるいは近江へ脱出せよ。」
この一言を託すことはできたのではないでしょうか。
信長ほどの戦略家なら、自分の命よりも政権の存続を優先したはずです。
実際、信長はすでに家督を信忠に譲っています。
信忠は単なる嫡男ではなく、事実上の織田家当主でした。
つまり、本能寺で信長が討たれても、信忠さえ生きていれば織田政権は存続できます。
逆に、信長と信忠が同日に討たれたことで、織田政権は一瞬にして求心力を失いました。
秀吉が台頭できた最大の理由も、ここにあると思います。
私がさらに疑問に思うのは、光秀の立場です。
近年紹介された一次史料では、光秀は信長の脱出を警戒し、鳥羽口方面で待機していた可能性が指摘されています。これが事実なら、光秀の最優先目標はあくまで信長でした。
一方、信忠が妙覚寺にいたことを光秀が最初から把握していたとは考えにくいのです。
つまり光秀にとっては、
「まず信長を討つ。信忠は後から討てばよい。」
という優先順位だった可能性があります。
だからこそ、私は信忠には十分に脱出の機会があったと思うのです。
しかも当時は写真も映像もありません。
信忠の顔を知る者はごく限られていました。
従いまして、信忠の顔を知る者は限られています。
町人や僧侶に変装し、数人の供回りで京都を脱出することは、決して不可能ではなかったでしょう。
彼の幼い実子の三法師が脱出できたのですから、二十代後半で戦場経験豊富な信忠が逃げられなかったとは考えにくいのです。
では、なぜそうならなかったのか。
私は、信忠自身が「父を見殺しにして京都を離れるわけにはいかない」と判断した可能性はあります。
あるいは、「援軍が到着するまで持ちこたえよう」と考えたのかもしれません。
しかし、それでも信長から、
「儂はここまでじゃ。お前は織田家のために生き延びよ。そして光秀の首を我が墓前に供えよ」という命令が届いていれば、信忠の判断は変わったのではないでしょうか。

私は、その伝令が決して不可能だったとは思いません。
本能寺から二条新御所までは、わずか一キロほどしか離れていません。しかも払暁の混乱の中であれば、使者を一人走らせることは十分可能だったのではないでしょうか。
実際に、徒歩10分足らずの距離であり、健脚の使者なら数分で到達できたはずです。
私はここに、信長らしくない違和感を覚えます。
信長は合理主義者でした。
長篠では鉄砲を大量運用し、天下統一でも旧来の常識に縛られなかった人物です。
まして金ヶ崎の退き口では、殿軍を家臣に任せ、自らは京都へ脱出しています。
その信長が、政権維持の要である信忠を生かすという危機管理を怠ったとは考えにくいのです。
もちろん、伝令を出したが途中で討たれた可能性もあります。
あるいは、実際には命令を出したものの、史料に残らなかっただけかもしれません。
しかし、現時点ではそれを裏付ける一次史料は見つかっていません。
私は、本能寺の変を考えるとき、多くの人が「信長がなぜ死んだか」に目を向け過ぎているように感じます。
本当に重要なのは、「信長はなぜ信忠に脱出を命じなかったのか。」ではないでしょうか。
もし信忠が堺や近江へ脱出していれば、安土・岐阜の織田軍、丹羽長秀、柴田勝家、羽柴秀吉らは正統な当主・信忠のもとに集結したはずです。
光秀は「信長を討った逆臣」に終わり、山崎の戦いを待つまでもなく孤立した可能性があります。
私にとって本能寺最大の謎は、光秀の動機でも黒幕説でもありません。
天下一の戦略家・織田信長が、なぜ後継者・信忠に「生き延びよ」という、たった一つの命令を伝えなかったのか。
その答えが見つかる日が来れば、本能寺の変はまったく新しい姿で語られるのではないかと思っています。








今日は上野で外国人ガイドです。
アメ横周辺をブラブラしました。
今日のお店は手のし餃子、湯麺の「珍満」さんの暖簾をくぐりました。
住所: 東京都台東区上野3-28-10
:03-3831-8801
定休日:年中無休

お店の外観です。
16年ぶりの訪問です。
店内は若い人が増えましたね、

店内の雰囲気です。

メニューです。
今日のオーダー「餃子&半ライス」@680+@230=910円です。

座って2分後にお水と沢庵と爪楊枝がきました。



待つこと11分で「餃子&半ライス」が到着しました。
見た目、美味しそうです。
それでは実食です。
ここの皮はパリンとして美味しいですね、香ばしくて本当に美味しいです。
餡は野菜系肉少なめですが、このくらいの方が皮の美味しさが楽しめます。
前回お邪魔したときは@680円でした。
これは私がお店の歴史の証言者であることの証です。
久しぶりに美味しい餃子を頂きました。
ごちそうさまでした。

本能寺の変については、「なぜ光秀は謀反を起こしたのか」「黒幕はいたのか」といった議論が数多くあります。
しかし、私が以前から最も不思議に思っているのは、そこではないのです。
信長はなぜ信忠に「堺へ逃げよ」と伝令を送らなかったのか。
私は、この一点こそ本能寺最大の謎だと思っています。
一般には、本能寺が急襲され、信長は応戦し、自害したと説明されます。
しかし、本能寺から脱出した者がいたことは史料からも確認できます。
つまり、完全に包囲されていたわけではありません。
裏側は高家の家が密集していて明智軍は手薄だったのです。
であれば、信長は一人の伝令に、
「信忠に伝えよ。京都を離れ、堺あるいは近江へ脱出せよ。」
この一言を託すことはできたのではないでしょうか。
信長ほどの戦略家なら、自分の命よりも政権の存続を優先したはずです。
実際、信長はすでに家督を信忠に譲っています。
信忠は単なる嫡男ではなく、事実上の織田家当主でした。
つまり、本能寺で信長が討たれても、信忠さえ生きていれば織田政権は存続できます。
逆に、信長と信忠が同日に討たれたことで、織田政権は一瞬にして求心力を失いました。
秀吉が台頭できた最大の理由も、ここにあると思います。
私がさらに疑問に思うのは、光秀の立場です。
近年紹介された一次史料では、光秀は信長の脱出を警戒し、鳥羽口方面で待機していた可能性が指摘されています。これが事実なら、光秀の最優先目標はあくまで信長でした。
一方、信忠が妙覚寺にいたことを光秀が最初から把握していたとは考えにくいのです。
つまり光秀にとっては、
「まず信長を討つ。信忠は後から討てばよい。」
という優先順位だった可能性があります。
だからこそ、私は信忠には十分に脱出の機会があったと思うのです。
しかも当時は写真も映像もありません。
信忠の顔を知る者はごく限られていました。
従いまして、信忠の顔を知る者は限られています。
町人や僧侶に変装し、数人の供回りで京都を脱出することは、決して不可能ではなかったでしょう。
彼の幼い実子の三法師が脱出できたのですから、二十代後半で戦場経験豊富な信忠が逃げられなかったとは考えにくいのです。
では、なぜそうならなかったのか。
私は、信忠自身が「父を見殺しにして京都を離れるわけにはいかない」と判断した可能性はあります。
あるいは、「援軍が到着するまで持ちこたえよう」と考えたのかもしれません。
しかし、それでも信長から、
「儂はここまでじゃ。お前は織田家のために生き延びよ。そして光秀の首を我が墓前に供えよ」という命令が届いていれば、信忠の判断は変わったのではないでしょうか。

私は、その伝令が決して不可能だったとは思いません。
本能寺から二条新御所までは、わずか一キロほどしか離れていません。しかも払暁の混乱の中であれば、使者を一人走らせることは十分可能だったのではないでしょうか。
実際に、徒歩10分足らずの距離であり、健脚の使者なら数分で到達できたはずです。
私はここに、信長らしくない違和感を覚えます。
信長は合理主義者でした。
長篠では鉄砲を大量運用し、天下統一でも旧来の常識に縛られなかった人物です。
まして金ヶ崎の退き口では、殿軍を家臣に任せ、自らは京都へ脱出しています。
その信長が、政権維持の要である信忠を生かすという危機管理を怠ったとは考えにくいのです。
もちろん、伝令を出したが途中で討たれた可能性もあります。
あるいは、実際には命令を出したものの、史料に残らなかっただけかもしれません。
しかし、現時点ではそれを裏付ける一次史料は見つかっていません。
私は、本能寺の変を考えるとき、多くの人が「信長がなぜ死んだか」に目を向け過ぎているように感じます。
本当に重要なのは、「信長はなぜ信忠に脱出を命じなかったのか。」ではないでしょうか。
もし信忠が堺や近江へ脱出していれば、安土・岐阜の織田軍、丹羽長秀、柴田勝家、羽柴秀吉らは正統な当主・信忠のもとに集結したはずです。
光秀は「信長を討った逆臣」に終わり、山崎の戦いを待つまでもなく孤立した可能性があります。
私にとって本能寺最大の謎は、光秀の動機でも黒幕説でもありません。
天下一の戦略家・織田信長が、なぜ後継者・信忠に「生き延びよ」という、たった一つの命令を伝えなかったのか。
その答えが見つかる日が来れば、本能寺の変はまったく新しい姿で語られるのではないかと思っています。








今日は上野で外国人ガイドです。
アメ横周辺をブラブラしました。
今日のお店は手のし餃子、湯麺の「珍満」さんの暖簾をくぐりました。
住所: 東京都台東区上野3-28-10
:03-3831-8801定休日:年中無休

お店の外観です。
16年ぶりの訪問です。
店内は若い人が増えましたね、

店内の雰囲気です。

メニューです。
今日のオーダー「餃子&半ライス」@680+@230=910円です。

座って2分後にお水と沢庵と爪楊枝がきました。



待つこと11分で「餃子&半ライス」が到着しました。
見た目、美味しそうです。
それでは実食です。
ここの皮はパリンとして美味しいですね、香ばしくて本当に美味しいです。
餡は野菜系肉少なめですが、このくらいの方が皮の美味しさが楽しめます。
前回お邪魔したときは@680円でした。
これは私がお店の歴史の証言者であることの証です。
久しぶりに美味しい餃子を頂きました。
ごちそうさまでした。
信長の遺体は大徳寺総見会の僧侶が埋葬したと
言っていました。
やはり首のことは、言ってませんでした。
そのほかには、遺体の代わりに木像火葬説もあります
珍満さん カウウンターテーブルを見ただけで
年季を感じます
行かない16年間で 一人歩きの230円がありました
スープの色が、ばっちりです!