今日は「大地震」です。
私は東京の下町で生まれ育ったものですから「大地震」の怖さは本当に擦り込まれて育ちました。
普通の人よりは防災意識は強いと思っています。
個人的には来たる関東大震災に備えて住居を近々改修する予定です。
今年は関東大震災から90年目の年です。
大正の地震学者今村明恒先生による大地震100周年周期説があるみたいで、この説によると2023年前後には関東地方に大地震が来てもおかしくないとしています。
私はいたずらに大地震の恐怖を煽るものではなく防災・減災の一助になればよいと思ってこの話をテーマアップしました。
宜しかったらお付き合いください。
◆1. 関東大震災の実態
この表の様に1703年におきた元禄地震では地震の規模は変わらないものの死者数が比較にならないほど増えています。人口比でいけば関東大震災では、10,000人位の死者数になるのですが実際は約10倍の10万人近い方が亡くなられています。
これは二次災害による火事によるものです。加えて元禄地震の時代にはほとんど人が住んでいなかった一番被害が甚大であった東京東部の下町に人口が密集していて、そこでの火災の被害者数の差で10倍近く膨れ上がったのです。
もともと下町は洪水等の水害に弱くさらに土地の地盤もゆるいことから本来なら人が住むところではなかったのですが、堤防での囲い込み等によって人が住めるようになってしまったのです。
さらにそのようなところに建てる建物は本来なら耐震補強等を施した高コストの建物しか建てられないような建築制限をしなければいけなかったのに、逆に低コストの安普請の住居ばかりが櫛比のように建てこんでしまいました。これが圧死者を増やした因となったのです。
後は歴史のいたずらなのでしょうが関東大震災はまさに計ったように昼ごはん時におきたために火災をおこす火元に事たりず歴史に残る大災害となったのです。
「半七捕物帳」の作者岡本綺堂はこの時に英国大使館の裏手(麹町)に住んでいて、地震発生後しばらくして東京の下町に火の手が上がっているのをみていました。
まさかここまでは火はこないだろうと高をくくっていたら火災旋風(竜巻のようなもの)が起こり、16時頃には当地まで火が飛んできて命からがら避難したそうです。
◆2. 陸軍被服廠跡地の悲劇
現在横網にある震災記念堂には9月1日の震災記念日には、小学生の時には毎年出向いて被災で亡くなれた方々の霊が安らかになるようお参りするために学校行事として行かされていました。
震災記念堂には被災の時のリアルな絵画(正直かなり残酷)がこの日だけ特別展示されており、また古ぼけた被災時のビデオをみせられ、いやでも心が暗く、重くなるし、社会の授業では関東大地震規模の地震が我が下町に再来したら存命率は0.4%と教えられていたので、万が一の場合はまちがいなくお陀仏になるなと思っていました。
従いましてこの震災記念堂にくると、この世の見納めみたいな心情(気持ち)になり正直行きたくはありませんでした。でも行けば学校はその後休校だったので嫌なのが半分嬉しいが半分だったのです。
今日初めて分かったのですが、陸軍被服廠跡地って横網公園だけだと思っていたのですが、実態は横網公園、両国国技館、江戸東京博物館までの広大な敷地だったのですね。
知りませんでした。
当時こんな公園で38,000人(福島県相馬市の人口と同数)もの人が亡くなるわけがないと高を括っていたのですが、この広さなら納得できます。
すみません地元の人間でないとわかりませんよね。
この広大な敷地のために周辺の下町一帯から多くの人が、この造成中の公園を絶好の避難場所とみなして集まったそうです。
そして16時ごろ、地震で発生した火災による熱風が人々を襲いました。避難の際に持ち出した家財道具に火が移り、さらに巨大な火災旋風が発生、人はおろか荷物や馬車までも巻き上げ、炎の中に飲み込んでいったという阿鼻叫喚の地獄絵図が現実に起きた、と聞いていたのですが実際はかなり違うようです。
実際は避難した人達は16時頃からいち早く夕飯の支度をしておりその場所を熱風が襲ったのです。
そして煮炊きをしていた七輪が火元となり燃え上がり、その場にいた人達を一気に火の粉で包み込んだのです。
したがいまして亡くなった多くの人達は火の粉に包み込まれたことによる窒息死です。
その後業火で焼きあげられたようです。
◆3. 地震予知
2009年にイタリアのラクイラ地震で震災前に安全宣言を出した地震学者が有罪になりました。私は偶然この裁判の成り行きのTVをみていましたが、地震学者は行政の圧力(地震パニック回避)で安全宣言をだしたのですが、その学者は最後に、地震予知などまだできない、そのためにはデータがたりなすぎる、独白していました。
日本でも同様です。
今日本の地震学者達の地震予知のレベルは、現在の研究がどの程度なのかを知ってもらえば決して過度の期待はできないと思う、というものです。そして、地震の予測は国民が期待している精度には正直まだいっていない、とも言っていました。日本国民が求めるような地震予知は地震学の進歩と発展を今しばらくまたなければならないようです。
地震はたしかに怖いものです。
でも地震は無限大なものではありません。起こればかならず収まります。
要は限度のあるものです。
その為には防災、減災に努めるべきです。
従いまして日々の積み重ねが肝要と申したいのです。
地震で非難をするときには必要な物以外はもたない、災害時の帰宅方法、家族の安否の確認等の方法は周知徹底しておく、耐震等が必要な建物はすぐにその措置を行う、災害時の物資は用意して定期的にメンテ補充しておく、というような当り前の事を当り前にしていればたかだか2〜3分の恐怖です。
数多くの地震で鍛えられた先祖のDNAをひきついでいる我々日本人なら必ず耐えることができます。
人間と動物の最大の違いは明日のことを考えられる力です!
OK Go はミュージックビデオでいつも面白い試みをしているので、毎回新曲よりミュージックビデオの方が楽しみだったりします。
今日は有楽町に出没です。
今日のお店は前回お気に入りの「宝(たから)」さんです。
住所: 東京都千代田区丸の内3-5-1 東京国際フォーラム B1F
電話:03-5233-9888
定休日:無休
お店の外観です。
店内の雰囲気です。
メニューです。
今日のオーダー「若鶏のピリ辛揚げ膳」@800円です。
待つこと7分で着膳です。
唐揚げ6個に副菜2品です。
豚汁とご飯はお替り自由です。
それでは実食です。
唐揚げはほっこり揚っていて美味しいです。
レッドチリペッパーが良い辛さを演出しています。
この組合せはniceです。
副菜もよい味わいです。
豚汁は煮詰まり感ありますがno problemです、美味しいですね。
個人的にはここの板長の料理センスは好きです。
少し古いですけれど“よい仕事していますね!”と言わせていただきます。
私は東京の下町で生まれ育ったものですから「大地震」の怖さは本当に擦り込まれて育ちました。
普通の人よりは防災意識は強いと思っています。
個人的には来たる関東大震災に備えて住居を近々改修する予定です。
今年は関東大震災から90年目の年です。
大正の地震学者今村明恒先生による大地震100周年周期説があるみたいで、この説によると2023年前後には関東地方に大地震が来てもおかしくないとしています。
私はいたずらに大地震の恐怖を煽るものではなく防災・減災の一助になればよいと思ってこの話をテーマアップしました。
宜しかったらお付き合いください。
◆1. 関東大震災の実態
この表の様に1703年におきた元禄地震では地震の規模は変わらないものの死者数が比較にならないほど増えています。人口比でいけば関東大震災では、10,000人位の死者数になるのですが実際は約10倍の10万人近い方が亡くなられています。
これは二次災害による火事によるものです。加えて元禄地震の時代にはほとんど人が住んでいなかった一番被害が甚大であった東京東部の下町に人口が密集していて、そこでの火災の被害者数の差で10倍近く膨れ上がったのです。
もともと下町は洪水等の水害に弱くさらに土地の地盤もゆるいことから本来なら人が住むところではなかったのですが、堤防での囲い込み等によって人が住めるようになってしまったのです。
さらにそのようなところに建てる建物は本来なら耐震補強等を施した高コストの建物しか建てられないような建築制限をしなければいけなかったのに、逆に低コストの安普請の住居ばかりが櫛比のように建てこんでしまいました。これが圧死者を増やした因となったのです。
後は歴史のいたずらなのでしょうが関東大震災はまさに計ったように昼ごはん時におきたために火災をおこす火元に事たりず歴史に残る大災害となったのです。
「半七捕物帳」の作者岡本綺堂はこの時に英国大使館の裏手(麹町)に住んでいて、地震発生後しばらくして東京の下町に火の手が上がっているのをみていました。
まさかここまでは火はこないだろうと高をくくっていたら火災旋風(竜巻のようなもの)が起こり、16時頃には当地まで火が飛んできて命からがら避難したそうです。
◆2. 陸軍被服廠跡地の悲劇
現在横網にある震災記念堂には9月1日の震災記念日には、小学生の時には毎年出向いて被災で亡くなれた方々の霊が安らかになるようお参りするために学校行事として行かされていました。
震災記念堂には被災の時のリアルな絵画(正直かなり残酷)がこの日だけ特別展示されており、また古ぼけた被災時のビデオをみせられ、いやでも心が暗く、重くなるし、社会の授業では関東大地震規模の地震が我が下町に再来したら存命率は0.4%と教えられていたので、万が一の場合はまちがいなくお陀仏になるなと思っていました。
従いましてこの震災記念堂にくると、この世の見納めみたいな心情(気持ち)になり正直行きたくはありませんでした。でも行けば学校はその後休校だったので嫌なのが半分嬉しいが半分だったのです。
今日初めて分かったのですが、陸軍被服廠跡地って横網公園だけだと思っていたのですが、実態は横網公園、両国国技館、江戸東京博物館までの広大な敷地だったのですね。
知りませんでした。
当時こんな公園で38,000人(福島県相馬市の人口と同数)もの人が亡くなるわけがないと高を括っていたのですが、この広さなら納得できます。
すみません地元の人間でないとわかりませんよね。
この広大な敷地のために周辺の下町一帯から多くの人が、この造成中の公園を絶好の避難場所とみなして集まったそうです。
そして16時ごろ、地震で発生した火災による熱風が人々を襲いました。避難の際に持ち出した家財道具に火が移り、さらに巨大な火災旋風が発生、人はおろか荷物や馬車までも巻き上げ、炎の中に飲み込んでいったという阿鼻叫喚の地獄絵図が現実に起きた、と聞いていたのですが実際はかなり違うようです。
実際は避難した人達は16時頃からいち早く夕飯の支度をしておりその場所を熱風が襲ったのです。
そして煮炊きをしていた七輪が火元となり燃え上がり、その場にいた人達を一気に火の粉で包み込んだのです。
したがいまして亡くなった多くの人達は火の粉に包み込まれたことによる窒息死です。
その後業火で焼きあげられたようです。
◆3. 地震予知
2009年にイタリアのラクイラ地震で震災前に安全宣言を出した地震学者が有罪になりました。私は偶然この裁判の成り行きのTVをみていましたが、地震学者は行政の圧力(地震パニック回避)で安全宣言をだしたのですが、その学者は最後に、地震予知などまだできない、そのためにはデータがたりなすぎる、独白していました。
日本でも同様です。
今日本の地震学者達の地震予知のレベルは、現在の研究がどの程度なのかを知ってもらえば決して過度の期待はできないと思う、というものです。そして、地震の予測は国民が期待している精度には正直まだいっていない、とも言っていました。日本国民が求めるような地震予知は地震学の進歩と発展を今しばらくまたなければならないようです。
地震はたしかに怖いものです。
でも地震は無限大なものではありません。起こればかならず収まります。
要は限度のあるものです。
その為には防災、減災に努めるべきです。
従いまして日々の積み重ねが肝要と申したいのです。
地震で非難をするときには必要な物以外はもたない、災害時の帰宅方法、家族の安否の確認等の方法は周知徹底しておく、耐震等が必要な建物はすぐにその措置を行う、災害時の物資は用意して定期的にメンテ補充しておく、というような当り前の事を当り前にしていればたかだか2〜3分の恐怖です。
数多くの地震で鍛えられた先祖のDNAをひきついでいる我々日本人なら必ず耐えることができます。
人間と動物の最大の違いは明日のことを考えられる力です!
OK Go はミュージックビデオでいつも面白い試みをしているので、毎回新曲よりミュージックビデオの方が楽しみだったりします。
今日は有楽町に出没です。
今日のお店は前回お気に入りの「宝(たから)」さんです。
住所: 東京都千代田区丸の内3-5-1 東京国際フォーラム B1F
電話:03-5233-9888
定休日:無休
お店の外観です。
店内の雰囲気です。
メニューです。
今日のオーダー「若鶏のピリ辛揚げ膳」@800円です。
待つこと7分で着膳です。
唐揚げ6個に副菜2品です。
豚汁とご飯はお替り自由です。
それでは実食です。
唐揚げはほっこり揚っていて美味しいです。
レッドチリペッパーが良い辛さを演出しています。
この組合せはniceです。
副菜もよい味わいです。
豚汁は煮詰まり感ありますがno problemです、美味しいですね。
個人的にはここの板長の料理センスは好きです。
少し古いですけれど“よい仕事していますね!”と言わせていただきます。