今日は「日本の一番長い日」です。
成功と失敗のどちらをよく覚えているかはひとそれぞれの性格によるが、戦争となると負け戦の方が忘れがたくないか。フランスのペタン元帥は第1次大戦の英雄としてよりも、第2次大戦でヒトラーに屈したビシー政権の首班として語られることの方がはるかに多い。
70年前のきょう、米戦艦ミズーリ上で降伏文書に署名した重光葵も自身の姿が長く記憶されることを意識していたに違いない。前夜にこんな短歌を残した。「願はくば御国の末の栄え行き 我名をさげすむ人の多きを」
いまの日本が重光の願い通りかはともかく、同じ役回りがその後はいないことを泉下で喜んでいよう。
右足が義足の重光の不自由な歩みに敗戦を印象付けられたという話をよく聞く。本人は至って冷静だった。『続重光葵手記』にはカナダ代表が欄を間違えて署名したなど細かいことまで記してあるし、列の並び方を描いたスケッチも添付されている。帰京後、昭和天皇に「先方の態度は適切にビジネスライク」と報告した。
むしろ大変だったのはその後だ。宿舎で休んでいると、米軍が軍政を布告するらしいとの報告が入った。
翌日、間接統治の方が日米双方に有益とマッカーサーを説き伏せた弁舌は有名だが、それよりも驚くのは前夜の態度だ。善後策を協議しに来た部下を追い返して寝てしまう。最後は策より度胸。さげすむ人などいまい。
日本経済新聞「春秋」より転載
奥様が同窓会で宿泊不在だったので一人で時間を使える僥倖を得ましたので映画「日本の一番長い日」を観に行きました。「日本の一番長い日」とは、昭和天皇や閣僚たちが御前会議において降伏を決定した1945年(昭和20年)8月14日の正午から宮城事件、そして国民に対してラジオ(日本放送協会)の玉音放送を通じてポツダム宣言の受諾を知らせる8月15日正午までの24時間を描いていたものです。
2度にわたり日本で映画化され、製作・配給東宝、岡本喜八監督による1967年版、製作・配給松竹、原田眞人監督による2015年版があります。
実は岡本喜八監督のものも見ていまして、三船敏郎さんの壮絶なる切腹シーンはかなり私の心を重くしたのでした。
今回の「日本の一番長い日」の主演は陸軍大臣・阿南惟幾を演じた役所広司さんでしたが、私の心を一番鷲掴みしたのは、鈴木貫太郎首相を演じる山崎努さんだったのです。
それでは鈴木首相の終戦間際の動静をWikipediaからの抜粋で紹介します。
「8月6日の広島への原爆投下、9日のソ連参戦と長崎への原爆投下、15日の終戦に至る間、鈴木は77歳の老体を押して不眠不休に近い形で終戦工作に精力を尽くした。
昭和天皇の希望は『軍や国民の混乱を最低限に抑える形で戦争を終らせたい』というものであり、鈴木は『天皇の名の下に起った戦争を衆目が納得する形で終らせるには、天皇本人の聖断を賜るよりほかない』と考えていた。
8月10日未明から行われた天皇臨席での最高戦争指導会議(御前会議)では、ポツダム宣言受諾を巡り、東郷茂徳外相が主張し米内光政海相と平沼騏一郎枢密院議長が同意した条件付受諾と、本土決戦を主張する阿南惟幾陸相が梅津美治郎陸軍参謀総長と豊田副武海軍軍令部総長の同意を受け主張した条件付受諾との間で激論がたたかわされ、結論がでなかった。
10日午前2時頃に鈴木が起立し『誠に以って畏多い極みでありますが、これより私が御前に出て、思召しを御伺いし、聖慮を以って本会議の決定と致したいと存じます』と述べた。
昭和天皇は涙ながらに『朕の意見は、先ほどから外務大臣の申しているところに同意である』と即時受諾案に賛意を示した。
昭和天皇の聖断が下ったが、ポツダム宣言に記された国体に関する条文の解釈について外務省と軍部の間で見解が分裂し、8月14日に再度御前会議が招集され天皇の聖断を再び仰ぐことになった。
御前会議は8月14日正午に終わり、日本の無条件降伏が決まった。
翌8月15日の早朝、佐々木武雄陸軍大尉を中心とする国粋主義者達が総理官邸及び小石川の私邸を襲撃し(宮城事件)、鈴木は警護官に間一髪救い出された。
同日正午、昭和天皇の朗読による終戦の詔勅がラジオで放送された。この日の未明、阿南惟幾が自刃した。
同日鈴木は天皇に辞表を提出し鈴木内閣は総辞職した。東久邇宮内閣成立の同月17日まで職務を執行している。
鈴木の述懐によると、生涯二度の暗殺の危機を生き延びた鈴木は、『軍人は政治に関わるべきではない』を信条としていた。敗戦の1年後1946年のインタビューでは、『われは敗軍の将である。ただいま郷里に帰って、畑を相手にいたして生活しております』とコメントしている。」
この映画で見る限り山崎努演じる人を食った鈴木首相の人となりに感動しました。
高齢による耳の聞こえの悪さを随所に意図的に駆使して議論を纏めていく手腕というかその外連(ケレン)には感動すら覚えました。ふりネタの重光葵の様に昔はこのような泰然自若(落ち着きはらっ て物事に動じない様)の方は多かったように思います。
阿南陸軍大臣との確執も出来レースの様でしたし、端から天皇のご聖断を落としどころにして会議を進めていたのは本当にたいしたものです。
多分この老大臣がいなければ日本の終戦はなされなかったのでしょう。
それにしても若手将校のクーデターである宮城事件は危機一髪でした。
色々な偶然が重なり玉音放送のテープが放送までの間に死守されたのはまさに幸運と言わざるを得ません。
役所広司さんも前作の三船敏郎さんと比較されるのでやりにくかったのでしょうが名演技でした。
阿南大臣の自裁は前作ではそのグロテスクさが前面にですぎ、自裁の理由がわかりませんでしたが、今回の映画ではその自裁は、陸軍トップとして強硬論を最後まで貫きながら、自身の死でポツダム宣言受諾後の陸軍の暴走をおさめようとしたという深謀遠慮がわかり、これにてやっと腹に落ちた次第であります。
しか〜しこの自裁を見届ける為に別室で待機していた人がいたことも時代を感じました。
ということではあり今回のふりネタは完璧にネタバレですが、一食抜いても見る事をお勧めします。
私たちが現在つつがなくある嚆矢を大いに体感できる事かと思います。
今日は神田に出没です。
このお店は若かりし頃、仕事に行き詰るとよくここの天丼を食べに来ました。
私の「青春の蹉跌」を埋めに来たお店ともいえます。
今日のお店は神田「天平(てんぺい)」さんです。
住所: 東京都千代田区神田須田町1-2
電話:03-3256-5788
定休日:土曜、日曜、祝日
お店の外観です。
店内の雰囲気です。
創業時のお店です。
もともとはお米屋さんだったので「天米」なのです。
このメニューは創業時のものでしょうか、完璧にデフレ価格ですね(笑)
メニューです。
今日のオーダー「天丼」1,250円です。
まずはお店の紹介です。
「神田淡路町の「天兵」は法外な値段ではなく、昔からの東京の天ぷらを楽しめる一軒だ「天兵」の創業は昭和15年。以来、64年間、神田の地元客や東京の天ぷらを愛する客が集まる店となっている。
この店の味の特徴は、まずはクリスピーな表面の下に厚さ1ミリに満たないマシュマロのような層ができる「衣」。
さらに「天兵」の天タネは東京湾で獲れる魚介を主としているところだ。天兵のような正統派の店に通う楽しみは単に天ぷらを味わうことだけではない。
江戸前の技術が目の前で進化、発展していくところを見守るところにもある。
「東京カレンダー」より転載
待つこと8分で「天丼」の到着です。
店員さんが奥にいたので店内のオーダーが不明で「かき揚げ丼」を頼んだ人のところに私の「天丼」がいってしまいました。私は即その間違いに気がついたのですが「かき揚げ丼」を頼んだ人はそれに気づかず食べようとした時、厨房のご主人が誤配に気がつき謝罪しました。
私はその天丼が手付かずだったので、もったいないからそれでいいですよ、といいましたら、私どもの間違いですのですぐに作り直します、と言い切ったのです。
流石ですね。
今日のタネは、海老×2本、メゴチ、鱚(きす)、ピーマン、茄子です。
それでは実食です。
ここの天麩羅はカラッと揚げないので衣にちょっとウェット感ありです。
丼つゆはちょっと濃い目の下町風です。
このお店では、私は海老のみ単独で食べて後は小分けして少しずつ纏めて渾然と食べるのが私の好みの食べ方です。
味ですか、美味しいとか不味いとかではなくてここの味が好きなのです。
換言すれば好物なのです。
最後に強いて瑕瑾をあげれば昔に比べればタネが縮小していました。
この大きさでないと纏めて渾然と食べられません。
値段を上げても結構です。
元の大きさに戻してください・・・
成功と失敗のどちらをよく覚えているかはひとそれぞれの性格によるが、戦争となると負け戦の方が忘れがたくないか。フランスのペタン元帥は第1次大戦の英雄としてよりも、第2次大戦でヒトラーに屈したビシー政権の首班として語られることの方がはるかに多い。
70年前のきょう、米戦艦ミズーリ上で降伏文書に署名した重光葵も自身の姿が長く記憶されることを意識していたに違いない。前夜にこんな短歌を残した。「願はくば御国の末の栄え行き 我名をさげすむ人の多きを」
いまの日本が重光の願い通りかはともかく、同じ役回りがその後はいないことを泉下で喜んでいよう。
右足が義足の重光の不自由な歩みに敗戦を印象付けられたという話をよく聞く。本人は至って冷静だった。『続重光葵手記』にはカナダ代表が欄を間違えて署名したなど細かいことまで記してあるし、列の並び方を描いたスケッチも添付されている。帰京後、昭和天皇に「先方の態度は適切にビジネスライク」と報告した。
むしろ大変だったのはその後だ。宿舎で休んでいると、米軍が軍政を布告するらしいとの報告が入った。
翌日、間接統治の方が日米双方に有益とマッカーサーを説き伏せた弁舌は有名だが、それよりも驚くのは前夜の態度だ。善後策を協議しに来た部下を追い返して寝てしまう。最後は策より度胸。さげすむ人などいまい。
日本経済新聞「春秋」より転載
奥様が同窓会で宿泊不在だったので一人で時間を使える僥倖を得ましたので映画「日本の一番長い日」を観に行きました。「日本の一番長い日」とは、昭和天皇や閣僚たちが御前会議において降伏を決定した1945年(昭和20年)8月14日の正午から宮城事件、そして国民に対してラジオ(日本放送協会)の玉音放送を通じてポツダム宣言の受諾を知らせる8月15日正午までの24時間を描いていたものです。
2度にわたり日本で映画化され、製作・配給東宝、岡本喜八監督による1967年版、製作・配給松竹、原田眞人監督による2015年版があります。
実は岡本喜八監督のものも見ていまして、三船敏郎さんの壮絶なる切腹シーンはかなり私の心を重くしたのでした。
今回の「日本の一番長い日」の主演は陸軍大臣・阿南惟幾を演じた役所広司さんでしたが、私の心を一番鷲掴みしたのは、鈴木貫太郎首相を演じる山崎努さんだったのです。
それでは鈴木首相の終戦間際の動静をWikipediaからの抜粋で紹介します。
「8月6日の広島への原爆投下、9日のソ連参戦と長崎への原爆投下、15日の終戦に至る間、鈴木は77歳の老体を押して不眠不休に近い形で終戦工作に精力を尽くした。
昭和天皇の希望は『軍や国民の混乱を最低限に抑える形で戦争を終らせたい』というものであり、鈴木は『天皇の名の下に起った戦争を衆目が納得する形で終らせるには、天皇本人の聖断を賜るよりほかない』と考えていた。
8月10日未明から行われた天皇臨席での最高戦争指導会議(御前会議)では、ポツダム宣言受諾を巡り、東郷茂徳外相が主張し米内光政海相と平沼騏一郎枢密院議長が同意した条件付受諾と、本土決戦を主張する阿南惟幾陸相が梅津美治郎陸軍参謀総長と豊田副武海軍軍令部総長の同意を受け主張した条件付受諾との間で激論がたたかわされ、結論がでなかった。
10日午前2時頃に鈴木が起立し『誠に以って畏多い極みでありますが、これより私が御前に出て、思召しを御伺いし、聖慮を以って本会議の決定と致したいと存じます』と述べた。
昭和天皇は涙ながらに『朕の意見は、先ほどから外務大臣の申しているところに同意である』と即時受諾案に賛意を示した。
昭和天皇の聖断が下ったが、ポツダム宣言に記された国体に関する条文の解釈について外務省と軍部の間で見解が分裂し、8月14日に再度御前会議が招集され天皇の聖断を再び仰ぐことになった。
御前会議は8月14日正午に終わり、日本の無条件降伏が決まった。
翌8月15日の早朝、佐々木武雄陸軍大尉を中心とする国粋主義者達が総理官邸及び小石川の私邸を襲撃し(宮城事件)、鈴木は警護官に間一髪救い出された。
同日正午、昭和天皇の朗読による終戦の詔勅がラジオで放送された。この日の未明、阿南惟幾が自刃した。
同日鈴木は天皇に辞表を提出し鈴木内閣は総辞職した。東久邇宮内閣成立の同月17日まで職務を執行している。
鈴木の述懐によると、生涯二度の暗殺の危機を生き延びた鈴木は、『軍人は政治に関わるべきではない』を信条としていた。敗戦の1年後1946年のインタビューでは、『われは敗軍の将である。ただいま郷里に帰って、畑を相手にいたして生活しております』とコメントしている。」
この映画で見る限り山崎努演じる人を食った鈴木首相の人となりに感動しました。
高齢による耳の聞こえの悪さを随所に意図的に駆使して議論を纏めていく手腕というかその外連(ケレン)には感動すら覚えました。ふりネタの重光葵の様に昔はこのような泰然自若(落ち着きはらっ て物事に動じない様)の方は多かったように思います。
阿南陸軍大臣との確執も出来レースの様でしたし、端から天皇のご聖断を落としどころにして会議を進めていたのは本当にたいしたものです。
多分この老大臣がいなければ日本の終戦はなされなかったのでしょう。
それにしても若手将校のクーデターである宮城事件は危機一髪でした。
色々な偶然が重なり玉音放送のテープが放送までの間に死守されたのはまさに幸運と言わざるを得ません。
役所広司さんも前作の三船敏郎さんと比較されるのでやりにくかったのでしょうが名演技でした。
阿南大臣の自裁は前作ではそのグロテスクさが前面にですぎ、自裁の理由がわかりませんでしたが、今回の映画ではその自裁は、陸軍トップとして強硬論を最後まで貫きながら、自身の死でポツダム宣言受諾後の陸軍の暴走をおさめようとしたという深謀遠慮がわかり、これにてやっと腹に落ちた次第であります。
しか〜しこの自裁を見届ける為に別室で待機していた人がいたことも時代を感じました。
ということではあり今回のふりネタは完璧にネタバレですが、一食抜いても見る事をお勧めします。
私たちが現在つつがなくある嚆矢を大いに体感できる事かと思います。
今日は神田に出没です。
このお店は若かりし頃、仕事に行き詰るとよくここの天丼を食べに来ました。
私の「青春の蹉跌」を埋めに来たお店ともいえます。
今日のお店は神田「天平(てんぺい)」さんです。
住所: 東京都千代田区神田須田町1-2
電話:03-3256-5788
定休日:土曜、日曜、祝日
お店の外観です。
店内の雰囲気です。
創業時のお店です。
もともとはお米屋さんだったので「天米」なのです。
このメニューは創業時のものでしょうか、完璧にデフレ価格ですね(笑)
メニューです。
今日のオーダー「天丼」1,250円です。
まずはお店の紹介です。
「神田淡路町の「天兵」は法外な値段ではなく、昔からの東京の天ぷらを楽しめる一軒だ「天兵」の創業は昭和15年。以来、64年間、神田の地元客や東京の天ぷらを愛する客が集まる店となっている。
この店の味の特徴は、まずはクリスピーな表面の下に厚さ1ミリに満たないマシュマロのような層ができる「衣」。
さらに「天兵」の天タネは東京湾で獲れる魚介を主としているところだ。天兵のような正統派の店に通う楽しみは単に天ぷらを味わうことだけではない。
江戸前の技術が目の前で進化、発展していくところを見守るところにもある。
「東京カレンダー」より転載
待つこと8分で「天丼」の到着です。
店員さんが奥にいたので店内のオーダーが不明で「かき揚げ丼」を頼んだ人のところに私の「天丼」がいってしまいました。私は即その間違いに気がついたのですが「かき揚げ丼」を頼んだ人はそれに気づかず食べようとした時、厨房のご主人が誤配に気がつき謝罪しました。
私はその天丼が手付かずだったので、もったいないからそれでいいですよ、といいましたら、私どもの間違いですのですぐに作り直します、と言い切ったのです。
流石ですね。
今日のタネは、海老×2本、メゴチ、鱚(きす)、ピーマン、茄子です。
それでは実食です。
ここの天麩羅はカラッと揚げないので衣にちょっとウェット感ありです。
丼つゆはちょっと濃い目の下町風です。
このお店では、私は海老のみ単独で食べて後は小分けして少しずつ纏めて渾然と食べるのが私の好みの食べ方です。
味ですか、美味しいとか不味いとかではなくてここの味が好きなのです。
換言すれば好物なのです。
最後に強いて瑕瑾をあげれば昔に比べればタネが縮小していました。
この大きさでないと纏めて渾然と食べられません。
値段を上げても結構です。
元の大きさに戻してください・・・