関東大震災-帝都壊滅の3日間-
NHKスペシャル「関東大震災-帝都壊滅の3日間-」を視聴しました。
この番組では、1923年に発生した関東大震災の様子とその影響について詳しく紹介されていました。
関東大震災では、約14万人が亡くなり、約38万人が負傷しました。
死者の内訳を見ると、圧死が30%、埋没死が19%、落下死が3%と、地震によるものが52%を占めていました。
一方、火災によるものの焼死が40%、火から逃げての溺死が4%と併せて44%にも達しており、地震だけではなく火災による被害も甚大であったことが分かります。
地震発生後、水道や消火栓が使えなくなり、午後2時頃から火災が激化しました。
しか〜し、東京市民は地震の危険性を甘く見ていました。
正午前に起きた地震の為に地震が落ち着いてから寿司を食べに行ったり、避難のために大掛かりな家財道具を持ち出したりする人もいました。
そんな無防備な市民を嘲笑うかのように、複数の火災が無関係な場所で発生しました。
当時の東京は防災対策が不十分であり、木造住宅が密集していました。
午後3時からは大小さまざまな火の粉が飛び散り、風速10メートル前後の南風に乗って広範囲に移動しました。
この強風は日本海沿岸を北上していた台風の影響でした。
地震で瓦屋根の3分の1が崩れ落ちて杉皮の屋根板に落ちた火の粉はゆっくりと火に育ち育ちました。そしてその火は屋根板を貫通して家の内部に侵入し、フラッシュオーバーという現象で家全体に炎は広がりました。
そして次々と家に燃え移っていったのです。
2016年12月に糸魚川で起きた大規模火災でも、同様の現象が起きて120件もの家屋が延焼しました。
夕方頃からは遠くで起きていた火事が目の前で起き始めた事に気付く市民も増えました。
上野公園には50万人もの避難者が押し寄せました。
大八車に荷物を積んで逃げる人は多く、通り口を塞いでその荷物は燃え草に変じていました。それを見ていた外国人は日本人が避難する際に布団や家財道具を持って逃げることを不思議に思っていました。
それと同時刻の下町の人々は周囲を炎に囲まれて川に逃げ込むしかありませんでした。
それを嫌がる人達は、橋を渡るも地獄、残るも地獄という究極の選択を迫られたのです。
時間の経過と共に溢れかえった人々のために群衆事故が起きて多くの人が圧死したり焼け死んだり転落死したりしました。
永代橋、厩橋、吾妻橋などではこのような悲惨な光景が見られました。
焼け死を恐れて川に飛び込んで溺死した人は5,000人にも昇りました。
そして関東大震災のカオスの極みが被服廠跡での火災です。。
ここでは約4万人がわずか数時間で亡くなりました。
被服廠跡は約2万坪(7ヘクタール弱)の空き地でしたが、地震後に大勢の人が避難しました。ここへの避難者は大八車などで多くの家財道具を持ち込み密集していました。
安全な場所に腰を落ち着ける事ができたので七輪で遅い昼食を作り始める人は少なくありませんでした。
皆その安堵感からか口元に笑みを湛えていました。
その安息地である被服廠跡の眼前の北東部には木造住宅が密集していました。
このような環境が、火災旋風の発生と拡大に影響したと考えられます。
火災旋風とは、火災によって発生する熱気が上昇し、周囲の空気が流入して渦を巻く現象です。
この渦は竜巻のようになり、火や煙を巻き込んで周囲に広がります。
関東大震災で墨田区被服廠跡に生じた火災旋風の原因は、現在でも完全には解明されていませんが、一説によると、台風の影響で隅田川から吹き付ける南風と北東から迫ってきた木密住宅からの火事とが相まって火災旋風が発生したとされています。
田端駅の側、ほとんど被害がなかった場所に31歳の若き文豪がいました。
それは既に文壇に不動の名声を築いていた芥川龍之介です。
彼は焼野原と化した東京を歩いて廻りその様子を以下の手記として残していました。
変わり果てた東京を嘆きながらも、被災した人達のある行動に心を動かされた。
親しそうに話し合ったり、煙草や梨をすすめあったり、互いに子供の守をしたりする景色は、殆ど至る所に見受けられたものである。
大勢の人々にいつにない親しさが湧いているのは兎に角美しい景色だった。
僕は永久にあの記憶だけは大事にしておきたいと思っている。
なんとも心が温まる東京市民のいたわりあいの光景であります。
東京のあちこちで復興に向けて人々が立ち上がっていました。
ゼロから暮らしを立て直そうと懸命に前に動き出しました。
かかる中、10月19日火災旋風で39,000人が命を落とした被覆廠跡では大規模な49日の追悼が行われていました。遺族の者は誰のモノともしらない遺骨を家族の者として持ち帰っていました。
あれから100年、東京都防災会議は今後30年以内に同様の首都直下地震が起きる可能性を70%としています。
私はこの未曾有の悲惨な歴史を振り替えながら防災・減災に努めていかなければならないと強く思っています。
今日は神楽坂に出没です。
蕎麦を食べにきました。
今日お店は蕎麦ダイニングの「和み」さんです。
住所: 東京都新宿区神楽坂3-2-31 2F
電話:03-3267-5666
定休日:月曜日 第三日曜日
お店の外観です。
店内の雰囲気です。
メニューです。
今日のオーダー「天ざる」@1,400円です。
座るやいなや冷たいお茶が用意されました。
待つこと8分で「天ざる」が到着しました。
見た目、美味しそうです。
まずは蕎麦を頂きました。
ここの蕎麦は、十割蕎麦、福島県会津産のそば粉100%の蕎麦とシルク蕎麦福島県会津産のそば粉に、食用のシルク(絹)を混ぜ合わせ打った蕎麦と赤米蕎麦福島県会津産のそば粉に赤米を混ぜ合わせ打った蕎麦と二八蕎麦、福島県会津県産のそば粉80%、小麦粉20%の蕎麦から選べます。
今日の私の選択は二八です。
これは外連味がなく蕎麦の味わいを楽しめます。
乱尺の蕎麦は食感や味わいに変化があり楽しめます。
喉越しもよくて食べていてご機嫌になります。
今日の釜前は女将さんの息子さんです。
女将さんが腰の調子が悪いので手伝いに来てくれているそうです。
天婦羅は海老、ししとう、さつまいもです。
今日の中台(天ぷらを揚げたり、種物を作ったりする人)は女将さんです。
息子さんとの連携で熱熱の天婦羅を供してくれました。
天婦羅はみんなカラッと揚がっていて美味しかったですが白眉は海老です。
甘さすら感じて尻尾まで熱々でご機嫌で頂きました。
蕎麦湯で締めました。
このドロッとした白湯は口内の夾雑物をそぎ落としてくれて且つ蕎麦つゆの美味しさを再認識させてくれました。
食べた後は女将さんとしばらく雑談をしていました。
お元気そうで何よりでした。
ごちそうさまでした
NHKスペシャル「関東大震災-帝都壊滅の3日間-」を視聴しました。
この番組では、1923年に発生した関東大震災の様子とその影響について詳しく紹介されていました。
関東大震災では、約14万人が亡くなり、約38万人が負傷しました。
死者の内訳を見ると、圧死が30%、埋没死が19%、落下死が3%と、地震によるものが52%を占めていました。
一方、火災によるものの焼死が40%、火から逃げての溺死が4%と併せて44%にも達しており、地震だけではなく火災による被害も甚大であったことが分かります。
地震発生後、水道や消火栓が使えなくなり、午後2時頃から火災が激化しました。
しか〜し、東京市民は地震の危険性を甘く見ていました。
正午前に起きた地震の為に地震が落ち着いてから寿司を食べに行ったり、避難のために大掛かりな家財道具を持ち出したりする人もいました。
そんな無防備な市民を嘲笑うかのように、複数の火災が無関係な場所で発生しました。
当時の東京は防災対策が不十分であり、木造住宅が密集していました。
午後3時からは大小さまざまな火の粉が飛び散り、風速10メートル前後の南風に乗って広範囲に移動しました。
この強風は日本海沿岸を北上していた台風の影響でした。
地震で瓦屋根の3分の1が崩れ落ちて杉皮の屋根板に落ちた火の粉はゆっくりと火に育ち育ちました。そしてその火は屋根板を貫通して家の内部に侵入し、フラッシュオーバーという現象で家全体に炎は広がりました。
そして次々と家に燃え移っていったのです。
2016年12月に糸魚川で起きた大規模火災でも、同様の現象が起きて120件もの家屋が延焼しました。
夕方頃からは遠くで起きていた火事が目の前で起き始めた事に気付く市民も増えました。
上野公園には50万人もの避難者が押し寄せました。
大八車に荷物を積んで逃げる人は多く、通り口を塞いでその荷物は燃え草に変じていました。それを見ていた外国人は日本人が避難する際に布団や家財道具を持って逃げることを不思議に思っていました。
それと同時刻の下町の人々は周囲を炎に囲まれて川に逃げ込むしかありませんでした。
それを嫌がる人達は、橋を渡るも地獄、残るも地獄という究極の選択を迫られたのです。
時間の経過と共に溢れかえった人々のために群衆事故が起きて多くの人が圧死したり焼け死んだり転落死したりしました。
永代橋、厩橋、吾妻橋などではこのような悲惨な光景が見られました。
焼け死を恐れて川に飛び込んで溺死した人は5,000人にも昇りました。
そして関東大震災のカオスの極みが被服廠跡での火災です。。
ここでは約4万人がわずか数時間で亡くなりました。
被服廠跡は約2万坪(7ヘクタール弱)の空き地でしたが、地震後に大勢の人が避難しました。ここへの避難者は大八車などで多くの家財道具を持ち込み密集していました。
安全な場所に腰を落ち着ける事ができたので七輪で遅い昼食を作り始める人は少なくありませんでした。
皆その安堵感からか口元に笑みを湛えていました。
その安息地である被服廠跡の眼前の北東部には木造住宅が密集していました。
このような環境が、火災旋風の発生と拡大に影響したと考えられます。
火災旋風とは、火災によって発生する熱気が上昇し、周囲の空気が流入して渦を巻く現象です。
この渦は竜巻のようになり、火や煙を巻き込んで周囲に広がります。
関東大震災で墨田区被服廠跡に生じた火災旋風の原因は、現在でも完全には解明されていませんが、一説によると、台風の影響で隅田川から吹き付ける南風と北東から迫ってきた木密住宅からの火事とが相まって火災旋風が発生したとされています。
田端駅の側、ほとんど被害がなかった場所に31歳の若き文豪がいました。
それは既に文壇に不動の名声を築いていた芥川龍之介です。
彼は焼野原と化した東京を歩いて廻りその様子を以下の手記として残していました。
変わり果てた東京を嘆きながらも、被災した人達のある行動に心を動かされた。
親しそうに話し合ったり、煙草や梨をすすめあったり、互いに子供の守をしたりする景色は、殆ど至る所に見受けられたものである。
大勢の人々にいつにない親しさが湧いているのは兎に角美しい景色だった。
僕は永久にあの記憶だけは大事にしておきたいと思っている。
なんとも心が温まる東京市民のいたわりあいの光景であります。
東京のあちこちで復興に向けて人々が立ち上がっていました。
ゼロから暮らしを立て直そうと懸命に前に動き出しました。
かかる中、10月19日火災旋風で39,000人が命を落とした被覆廠跡では大規模な49日の追悼が行われていました。遺族の者は誰のモノともしらない遺骨を家族の者として持ち帰っていました。
あれから100年、東京都防災会議は今後30年以内に同様の首都直下地震が起きる可能性を70%としています。
私はこの未曾有の悲惨な歴史を振り替えながら防災・減災に努めていかなければならないと強く思っています。
今日は神楽坂に出没です。
蕎麦を食べにきました。
今日お店は蕎麦ダイニングの「和み」さんです。
住所: 東京都新宿区神楽坂3-2-31 2F
電話:03-3267-5666
定休日:月曜日 第三日曜日
お店の外観です。
店内の雰囲気です。
メニューです。
今日のオーダー「天ざる」@1,400円です。
座るやいなや冷たいお茶が用意されました。
待つこと8分で「天ざる」が到着しました。
見た目、美味しそうです。
まずは蕎麦を頂きました。
ここの蕎麦は、十割蕎麦、福島県会津産のそば粉100%の蕎麦とシルク蕎麦福島県会津産のそば粉に、食用のシルク(絹)を混ぜ合わせ打った蕎麦と赤米蕎麦福島県会津産のそば粉に赤米を混ぜ合わせ打った蕎麦と二八蕎麦、福島県会津県産のそば粉80%、小麦粉20%の蕎麦から選べます。
今日の私の選択は二八です。
これは外連味がなく蕎麦の味わいを楽しめます。
乱尺の蕎麦は食感や味わいに変化があり楽しめます。
喉越しもよくて食べていてご機嫌になります。
今日の釜前は女将さんの息子さんです。
女将さんが腰の調子が悪いので手伝いに来てくれているそうです。
天婦羅は海老、ししとう、さつまいもです。
今日の中台(天ぷらを揚げたり、種物を作ったりする人)は女将さんです。
息子さんとの連携で熱熱の天婦羅を供してくれました。
天婦羅はみんなカラッと揚がっていて美味しかったですが白眉は海老です。
甘さすら感じて尻尾まで熱々でご機嫌で頂きました。
蕎麦湯で締めました。
このドロッとした白湯は口内の夾雑物をそぎ落としてくれて且つ蕎麦つゆの美味しさを再認識させてくれました。
食べた後は女将さんとしばらく雑談をしていました。
お元気そうで何よりでした。
ごちそうさまでした