下町っ子の上の空

好奇心が人一倍強く、見栄っ張りで、お人好しの下町っ子のBlogです。 ウンチクネタがくどいのがたまに傷ですが、お気軽にお立ち寄り下さい。

遠藤周作

築地 蜂の子 リターンズ

今日は「沈黙」の話です。
沈黙
司祭は憶えていた。西勝寺で始めて会ったフェレイラの耳のうしろにひきつった火傷の後のような傷口があったことをはっきり憶えていた。その傷口の褐色の色まで今、まぶたの裏に甦ってきた。その影像を追い払うように、彼は壁に頭を打ちつづけた。
「あの人たちは、地上の苦しみの代りに永遠の悦びをえるでしょう」
「誤魔化してはならぬ」フェレイラは静かに答えた。「お前は自分の弱さをそんな美しい言葉で誤魔化してはいけない」
「私の弱さ」司祭は首をふったが自信がなかった。
「そうじゃない。私はあの人たちの救いを信じていたからだ」
「お前は彼等より自分が大事なのだろう。少なくとも自分の救いが大切なのだろう。お前が転ぶと言えばあの人たちは穴から引き揚げられる。苦しみから救われる。それなのにお前は転ぼうとはせぬ。お前は彼等のために教会を裏切ることが怖ろしいからだ。このわしのように教会の汚点となるのが怖ろしいからだ」そこまで怒ったように一気に言ったフェレイラの声が次第に弱くなって、「わしだってそうだった。あの真暗な冷たい夜、わしだって今のお前と同じだった。だが、それが愛の行為か。司祭は基督にならって生きよと言う。もし基督がここにいられたら」
フェレイラは一瞬、沈黙を守ったが、すぐはっきりと力強く言った。
「たしかに基督は、彼等のために、転んだだろう」
夜が少しずつあけはじめてきた。今まで闇の塊だったこの囲いにもほの白い光がかすかに差しはしめた。
「基督は、人々のために、たしかに転んだだろう」
「そんなことはない」司祭は于で顔を覆って指の間からひきしぼるような声を出した。
「そんなことはない」
「基督は転んだだろう。愛の為に。自分のすべてを犠牲にしても」
「これ以上、わたしを苦しめないでくれ。去ってくれ。遠くに行ってくれ」
司祭は大声で泣いていた。閂(かんぬき)が鈍い音をたててはずれ、戸が開く。そして開いた戸から白い朝の光が流れこんだ。
「さあ」フェレイラはやさしく司祭の肩に千をかけて言った。「今まで誰もしなかった一番辛い愛の行為をするのだ」
よろめきながら司祭は足を曳きずった。重い鉛の足柳をつけられたように一歩一歩歩いていく彼をフェレイラがうしろから押す。朝方のうすあかりの中に彼の進む廊下はどこまでも真直ぐにのびていた。そしてその突きあたりに二人の役人と通辞とが黒い三つの人形のように立っていた。
【中略】
司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私か一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。
こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。
「沈黙」遠藤周作著より転載

今遠藤周作さんにハマっています。
私はこの小説家をぐうたらシリーズでしかその筆致を知らなかったのですが、実態はキリスト信仰の根源的な問題を弱者の視点を通して浮き彫りしていくというstorytellerだったのですね。その宗教関連の小説は正直かなり面白いのです。

前後関係を分かりやすくするために、この件(くだり)の粗筋を掻い摘んで以下に記してみます。
長崎奉行所でロドリゴは棄教した師のフェレイラと出会い、さらにかつては自身も信者であった長崎奉行の井上筑後守との対話を通じて、日本人にとって果たしてキリスト教は意味を持つのかという命題を突きつけられる。奉行所の門前では、キチジローが何度も何度もロドリゴに会わせて欲しいと泣き叫んでは、追い返されている。ロドリゴはその彼に軽蔑しか感じない。

神の栄光に満ちた殉教を期待して牢につながれたロドリゴに夜半、フェレイラが語りかける。その説得を拒絶するロドリゴは、彼を悩ませていた遠くから響く鼾(いびき)のような音を止めてくれと叫ぶ。その言葉に驚いたフェレイラは、その声が鼾なぞではなく、拷問されている信者の声であること、その信者たちはすでに棄教を誓っているのに、ロドリゴが棄教しない限り許されないことを告げる。自分の信仰を守るのか、自らの棄教という犠牲によって、イエスの教えに従い苦しむ人々を救うべきなのか、究極のジレンマを突きつけられたロドリゴは、フェレイラが棄教したのも同じ理由であったことを知るに及んで、ついに踏絵を踏むことを受け入れる。

夜明けに、ロドリゴは奉行所の中庭で踏絵を踏むことになる。すり減った銅板に刻まれた「神」の顔に近づけた彼の足を襲う激しい痛み。そのとき踏絵のなかのイエスが「踏むがよい。お前のその足の痛みを、私がいちばんよく知っている。その痛みを分かつために私はこの世に生まれ、十字架を背負ったのだから」と語りかける。

こうして踏絵を踏み、敗北に打ちひしがれたロドリゴを、裏切ったキチジローが許しを求めて訪ねる。イエスは再び、今度はキチジローの顔を通してロドリゴに語りかける。「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」「弱いものが強いものよりも苦しまなかったと、誰が言えるのか?」

踏絵を踏むことで初めて自分の信じる神の教えの意味を理解したロドリゴは、自分が今でもこの国で最後に残ったキリシタン司祭であることを自覚する。

信者達の上にふりかかる迫害、拷問、相次ぐ信者達の犠牲、文字通りの人間の気力、体力の限界をこえた苦難にもかかわらず、ついに神の「救い」はあらわれません。神はかたくなに「沈黙」を守ったままです。
はたして信者の祈りは、神にとどいているのか、いやそもそも神は本当に存在するのかと揺さぶるだけ揺さぶっといて、キリストは棄教者に足で踏まれても実際はこれを許していたという大どんでん返しなのですね。
すごい構成力です。
それでは殉教して死の旅に着いた信者はどうしてくれるのかと思わず突っ込んでしまいたいところでありますが、その信者達は天国で救済されるということでしょう。
信仰の不偏性、とその裏にひそむ融通無碍さですか、無信教の私としては理解ができないとところではあります。
作者は自著「深い河」でも、キリストはヨーロッパのキリスト教だけでなく、ヒンズー教のなかにも、仏教のなかにも、生きておられると思うからです。思うだけでなく、そのような生き方を選んだのです、と書かれていてその不偏性を強調していました。
キリストは転生し続けることでその存在感を示威し続けると読めるのですが、はたしてどうなのでしょう。

「神も仏もないものだ」という言葉は一般的な人が困惑の極みにおいて発しており、我が国でもかように「神、仏の沈黙」は悪い意味で認知されかつ人口に膾炙しております。
その「神の沈黙」に対して作者は「悲しみの連帯」即ち「神は沈黙していたのではない。共に苦しんでいたのだ」と説明しています。
もしキリスト教若しくは他の宗教でも「神の沈黙」に対して「悲しみの連帯」以外に明快な説明がつくのであるのであればおおいに傾聴するところであります。

私の子供からとある時に、宗教の事を何も知らずに無宗教だと広言すること事態が問題だよ、と言われた事が端緒となり、仏教、基督教関連の本を読み続けてきました。
そしてその帰結として、宗教を信じるというのはなかなか大変なものだな、というのが正直なところです。
Leap Before You Look!(見る前に飛べ)
今私にはその必要性がありません。しばらくは宗教には縁がないでしょうね・・・


CM撮影の裏側を見せます、という今回の企画、シーンの数はトータルで88カットに及ぶ大作CM。仕上げも編集に2週間、CGにも3週間かけた渾身のCMに仕上げています。
面白いですよ。



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今日は新富町に出没です。
たまには美味しい洋食が食べたいなということでお訪(とない)入れたのがこちら「蜂の子」さんです。

住所: 東京都中央区築地1-5-11
電話:03-3541-9805
営業時間:11:30〜14:00、18:00〜22:00(LO 20:50)
定休日: 土曜・日曜・祝日

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お店の外観です。

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店内の雰囲気です。

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メニューです。

今日のオーダー「Cランチ(オムライス・ハンバーグ・本日のフライ・サラダ・スープ」@950円です。
ここのところ手元不如意というか野口英世さんナシ状態でランチに行くことが続いてました。
今日で三回目です。過去2回はカードで支払ったので事なきを得たのですが、今日の「蜂の子」さんはカードが使えません。仕方なく(当り前)最寄りのATMまでお金を下ろしに行ってまいりました。
しか〜し、3回とも思うのですが、よくオーダーするときに金欠に気がついたものです。
世が世なら無銭飲食ですからね、エライ!
エラクもないですよ・・・ 

閑話休題おはなしはもどりまして
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待つこと3分で「ブロッコリーのスープ」が到着です。
見た目鮮やかですね、まるで抹茶みたいです。
それでは実食です。
ウン、これはすごく美味しいです。
ブロッコリーを素材に使っているのですが、味がとてもふくよかです。

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待つこと7分で(オムライス・ハンバーグ・本日のフライ・サラダ)の到着です。
見た目大人のお子様ランチです。
オムライスは使っているバターがいいですね。
ハンバーグはミートローフみたいな感じでかたいですね。
もしフライパンで焼いていたらのなら相済みません。
フライはメンチでした。
ハンバーグにメンチという献立は工夫がないように思います。
全般に美味しくまとめていましたがパンチ不足はいなめません。
少しガッカリなランチでした。
プラ〜スこのお店が好きだった理由の一つには、お店に入った時や、帰る時の挨拶が、奥様を核にしてホールスッタフ全員で揃って言ってもらえる事がありました。
お店が大きくなったせいですかね、今日は皆の挨拶が揃っていませんでした。
寂しいなと思っているのは私だけでしょうね・・・

それでは(^_-)

武蔵嵐山 満腹ラーメン三宝

今日は「キリストの誕生」の話です。
西暦30年の春、エルサレム城外の岩だらけの丘で、一人の男が処刑された。男は十字架に両手、両足を釘づけにされ、三時間の苦しみの後、息たえた。その死を遠くから見守ったのは彼の母親や何人かの女性たちだけで、生前、この男が生活を共にし、おのが信念を吹きこもうとした友や弟子たちはすべて彼を見棄て、逃亡していた。 
男は弟子たちが自分を見棄てただけではなく、裏切ったことも知っていた。弟子たちは彼と共に処刑されることを恐れ、自分たちの釈放を条件に彼を売ったのである。半生の間、愛してきたこの弟子たちの仕打ちは男の胸を引き裂いた。にもかかわらず、彼は十字架の上で、その彼等を恨むかわり、そのために必死で祈ったのである。
この臨終の有様を伝え聞いた弟子たちは、はじめておのれの卑怯さ、弱さに号泣した。良心の呵責を噛みしめながら彼等は故郷のガリラヤに戻ったあと、ふたたび思い出のエルサレムに集った。それが原始キリスト教団のはじまりとなった。
【中略】
イエスの死後、彼がキリストに高められるまでの短い歴史を調べたあと、私たちがぶつかるのは結局、この「なぜか」であり、そしてイエスの持つXである。 
この「なぜか」を素直に、謙虚に、考える時、私たちは次のような結論に達せざるをえない。たしかにイエスをキリストまで高めたのは弟子たちと原始キリスト教団との信仰である。彼等の意志によってイエスは人間を超えた存在に神格化されていった。イエスは「人の子」と言われ「神の子」となり、救い主と呼ばれ、そしてキリストになった。 
だがイエスを神の子にしたのは弟子たちだけではなかった。イエスにも、それに相応しいXがあったからこそ、彼は他の預言者たちと違った次元におかれたのである。人間が彼を聖なるものとしただけでなく、彼にも聖なるものとされるに価いした何かがあったのだ。 けれども原始キリスト教団史のもうひとつの問題はこうして弟子や信徒たちの信仰の対象になったキリストが必ずしも彼等の願い、要望に応えなかった点にある。
弟子たちは突きつけられた「神の沈黙」という謎を解くためイエスの再臨を考えるに至った。彼等は十宇架でみじめに死んだイエスがやがて栄光のキリストとしてふたたびこの地上にあらわれるのだ、と思うようになった。その希望はやがて彼等の信仰となり、彼等の結束の理由ともなった。 
だがそのキリストはあらわれなかった。弟子グループがユダヤ教徒に迫害され、ステファノが殺され、多くの信徒がエルサレムを棄てて各地に逃亡した時もあらわれなかった。ヤコブが神殿の城壁から突き落された時もあらわれなかった。ローマの大軍団がふたたびパレスチナを蹂躙し、エルサレムが恐怖と飢えとのなかで包囲された時もあらわれなかった。率直に言えば弟子たちの願いはすべて裏切られたのである。  
【中略】
ガリラヤで育ち、エルサレム城外で殺された、痩せた、手脚のほそい男。犬のように無力で、犬のように殺されながら、息を引きとるまでただ愛だけに生きた男。彼は生前、現実のなかで無力であり、ただ愛だけを話し、愛だけに生き、愛の神の存在を証明しようとしただけである。 
そして春の陽ざし強いゴルゴタの丘で死んだ。それなのに彼は弱虫たちを信念の使徒に変え、人々からキリストと呼ばれるようになった。キリストと呼ばれるようになっただけでなく、人間の永遠の同伴者と変っていったのである。「世の果まで私はお前たちと苦しむだろう」(パスカル『イエスの秘儀』)。それは人間がいかなる思想を持とうと、実はその魂の奥では変らざる同伴者をひそかに求めているからである。「我なくんば……」とパスカルはある夜、祈りつつそのイエスの声を聞いた。「我を求めることなし」 
人間がもし現代人のように、孤独を弄ばず、孤独を楽しむ演技をしなければ、正直、率直におのれの内面と向きあうならば、その心は必ず、ある存在を求めているのだ。愛に絶望した人間は愛を裏切らぬ存在を求め、自分の悲しみを理解してくれることに望みを失った者は、真の理解者を心の何処かで探しているのだ。それは感傷でも甘えでもなく、他者にたいする人間の条件なのである。  
だから人間が続くかぎり、永遠の同伴者が求められる。人間の歴史が続くかぎり、人間は必ずそのような存在を探し続ける。その切ない願いにイエスは生前もその死後も応えてきたのだ。キリスト教者はその歴史のなかで多くの罪を犯したし、キリスト教会も時には過ちに陥ったが、イエスがそれらキリスト教者、キリスト教会を超えて人間に求められ続けたのはそのためなのだ
「キリストの誕生」遠藤周作著より転載

イエスという人が実際にいた。そして十字架の上で死んだ。
そしてそれを素材として創作されたのが新約聖書なのだという見方です。
さらにイエスの弟子達がイエスの死後その生と死の意味をさぐりながら深めていったのが信仰の内部なのだという遠藤周作氏ならではの切り口です。
神秘の領域、神秘な故に無限、その神秘を浮き彫りにした筆力に敬服しました。
それにしてもこの小説を書くにあたって何百冊の文献を読んだのでしょうか。
遠藤周作氏のライフワークと言い換えてもよい一冊です。
この本の反響はすごいものがあったでしょうね・・・
無宗教の私としてはこの書を読んで本当に驚きを禁じ得ませんでした。

宇宙はいかに生まれたのか。
ある瞬間の大爆発で誕生したというビッグバン理論と、いや、永遠の昔から存在してきたのだという理論とのせめぎあいが科学者の間で続いたのは1951年の話です。
時のローマ法王ピウス12世が強烈にビッグバンに肩入れする演説を行ったそうです。 
宇宙誕生の瞬間がある、とすれば創造主、つまり神は存在することになるのだ、と法王の説くそんな理屈に波紋が広がりました。ビッグバン派の学者でさえ、バチカンが科学に口を挟んだと眉をひそめました。まして反対派は皮肉まじりに、なるほど、法王はかつて地球が静止しているという説(天動説)も支持したぐらいだからな、とかみついたそうです。

神は存在するのでしょうか・・・
もし神が存在するのであれば一つだけ神に願いがあります。
それは自分の葬式をみてみたいのです。
自分の葬式を見るということは、クリスマスキャロルの主人公のスクルージが体験したようにまさに自らの人生の成績表を見るのと同じです。
自分の人生がどのようなものだったのかを凝縮したのが葬式です。
もし誰も自分の死を誰も悲しんでいないとするならばそれはそれで地獄です。
でもそれはよしましょう。神にお願いするよりも日々人を慈しむことを心がけましょう。
人々を慈しむように心がけても見返りを期待しないことです。
打算的なふるまいは心を貧しくしますので・・・


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今日は武蔵嵐山に出没です。
この街は本当に食べるところがありません。
しか〜しtaxiの運転手さん情報によりますと大人気中華料理屋さんがあるとのとことです。
前回お邪魔したら休業日でした。
ということで今日は満を持してうかがいました。
今日のお店は「満腹ラーメン三宝」さんです。

住所: 埼玉県比企郡嵐山町川島2315-7
電話:0493-62-7746
定休日:水曜・第3木曜

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お店の外観です。

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店内の雰囲気です。

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今日のオーダーは埼玉ご当地B級グルメ王第三位に輝いた「嵐山辛もつ焼きそば」@650円です。
このお店はご主人と奥さん、そしてご子息と思しき3人で切り盛りしています。
このお店は私の育った下町のお店によく似ています。
というのも昼間だというのにお酒を楽しんでいる人が3組ほどおりました。
三組とも中華料理をオカズにお酒をグイグイといっています、いい感じですね。
見ていて心が休まります。

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待つこと10分で「嵐山辛もつ焼きそば」の着皿です。
見た目美味しいそう且bolumyです。
それでは実食です。
ウ〜ンマ〜イです。
特にモツが柔らかjuicyです。
辛さは激辛ではなくやや控えめですね。
しか〜しソースに辛味ってよく合うんですね、これはイケますよ。
さらにかなり多めに盛られた紅生姜がnice assistです。
ビールのアテでもいいのかもしれません。
むしゃむしゃと一気呵成に食べつつけているのですが、なかなかお皿の底がみえてきません。
どうしてなんだろうとふと考えていたら突然頭の中で店名がflashbackしました。
そうなのです、ここのお店の名前は「満腹ラーメン三宝」だったのですね。
食べ終わるのに一苦労しました。
すごいコスパですね、久々のくりびつてんぎょのいたおどろ!のlunchでございました。

それでは(^_-)
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