下町っ子の上の空

好奇心が人一倍強く、見栄っ張りで、お人好しの下町っ子のBlogです。 ウンチクネタがくどいのがたまに傷ですが、お気軽にお立ち寄り下さい。

近藤勇

神田 石川亭 8th

今日は「真説油小路事件」の話です。
私は京都が大好きです。
大阪在住の時は単身赴任だったこともあり、月に2回は京都に遊びに行っていました。
通算で50回以上は京都に行っています。
そんなこともあり、いつのまにか京都通を任じていたのですが、それが「砂上の楼閣」だったというのがわかったのです。この間京都に出張した時に新幹線の待ち時間に京都を逍遥しました。
その際油小路事件の場所を再度現認しにいったのです。

油小路事件というのは伊東甲子太郎という美男の誉れ高い御陵衛子が新撰組に木津屋橋近くで謀殺された事件です。伊東甲子太郎はその際新撰組に首を槍で刺しぬかれながらも応戦して、一名を斬捨てると油小路通りへ逃げて、北に数メートル行った「本光寺」あたりで、力尽きたということになっていました。しかし首を槍で刺し抜かれて闘える人間なんかはいるわけがありません。

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私は今まで「本光寺」がこの画像のお寺だと思っていました。しかしこんな明るいお寺の前で暗殺者は人を襲うのだろうかと、何か釈然としない思いに蹂躙されていたのです。
しかし今日氷解したのです。この画像のお寺は「霊石不動堂」であり、「本光寺」ではなかったのです。ちなみにこのお寺は「新選組まぼろしの屯所」だそうです。

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若干脇道にそれますが、新撰組の屯所は八木邸が手狭になり西本願寺に屯所を移転し、さらに慶応3年(1867年)に新撰組は不動堂村に移り、そこに屯所を構えたそうです。
しかしその不動堂村の屯所は上記「霊石不動堂」以外にも「リーガロイヤルホテル京都」と「リーガロイヤルホテル京都」から5分ほど西に歩いた場所に建つ「ハトヤ瑞鳳閣」と二つあります。つまり新撰組の不動堂村屯所は、実際1物件ですが現状ですと3物件あったことになります。京都市の史跡設置は意外にアバウトのようです。

閑話休題おはなしはもどりまして
本光寺
実は「本光寺」はこのお寺だったのです。
この画像は「不楽是如何〜史跡めぐりドライブ〜」様からの拝借です。
しかし京都の地名は分かりにくいですね。
その分かりにくさが私におおいなる曲解をあたえたのでした。
ということで「砂上の楼閣」を説明する為にここまで長々と引っ張ってしまいましたm(__)m
いずれにしても「本光寺」には絶対に行かなくてはと強く思っています。

油小路地図
それにしても油小路事件は不可解です。
幕末歴史家達は、まずこの地図のA地点を伊東甲子太郎のFirst attack pointとしておりC地点「本光寺」を絶命の場所として、D地点を油小路の粛清の場所としています。
参考までに油小路の粛清とは以下の内容です。
新選組は油小路七条の辻に伊東の遺骸を放置し、その周りに伏せ、遺体を引き取りにきた同志をまとめて粛清しようとした。遺骸を引き取りにきた同志は、藤堂平助・篠原泰之進・鈴木三樹三郎・服部武雄・毛内有之助・加納道之助・富山弥兵衛の7名であった。この待ち伏せによって、新選組結盟以来の生え抜き隊士で元八番隊組長を務めた藤堂平助のほかに、服部武雄・毛内有之助の3名が討死した。

私の考えはA地点が供応を受けた近藤勇の愛妾宅でB地点がFirst attack pointでC地点「本光寺」が絶命の場所でD地点が油小路の粛清の場所です。
私の推察でいくと近藤勇の愛妾宅を出た伊東甲子太郎は御陵衛子の屯所がある高台寺に向かいB地点にあるいていきます。そしてB地点で新撰組は伊東甲子太郎を襲撃します。そこから伊東甲子太郎は後ずさりしながらC地点「本光寺」まで下がります。そこで大石鍬次郎に電光一閃の一太刀を浴びて即死するのです。
これならなんの矛盾がないとおもうのですが、如何でしょうか・・・
幕末歴史家達の説ですと、A地点でほぼ即死状態の人がC地点まで歩行するということになります。
このような振る舞いができるのはゾンビだけでしょう。
久々に自信ありです。


今日は神田に出没です。
すいません、また吸い寄せられてしまいました。
今日のお店はこのblogではお馴染の「石川亭」さんです。

住所: 東京都千代田区内神田1-5-6 小山第二ビル1F
電話:03-3291-3158
定休日:日曜・祝日(ランチ予約不可)

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お店の外観です。

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店内の雰囲気です。

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メニューです。

本日のオーダーは「本日のランチ」@1,100円です。
内容は前菜、鶏肉とキノコのテリーヌ マスタードマヨネーズ添え、主菜、豚ロースのキャラメルゼ、です。

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前菜の「鶏肉とキノコのテリーヌ マスタードマヨネーズ添え」です。
キノコの食感がこんなに心弾むものなのかと思わせる一品です。
上品な味わいがいつまでも余韻として残ります。
マスタードマヨネーズがテリーヌの良きアクセントになっています。
これは美味しいですね。

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主菜の「豚ロースのキャラメルゼ」です。
見るからに美味しそうです。
キャラメルゼに包まれた豚ロースはまるで不思議な国のアリス状態です。
豚ロースの食べ方に奥行きを与えてくれた一品です。
これも美味しいですね。

それでは(^_-)

板橋 はちや

今日は「近藤勇異聞」の話です。
近藤勇さんは新撰組の中では土方歳三さんの次に好きな方です。
まあ実際に会ったことが無いので、すべて浅田次郎著「新選組読本」、「壬生義士伝」、司馬遼太郎著「竜馬がゆく」、「新選組読本」、子母澤寛著「新選組始末記」、「新選組遺文」「新選組物語」等の本からの擦り込みですがね。
真面目な多摩の田舎剣士がひょんなことから時代の潮流に巻き込まれてしまい、その中でひたすら武骨に誠の武士になろうと邁進していたのです。そして土方歳三という名producerを得たことにより最後は旗本まで栄達したのですね。
しかし滅私奉公した為政者が徳川慶喜というlame duck(政治的な影響力を失った権力者)だったが為に、最後はあたかも急な坂道を転げ落ちるようにしてその終焉を向かえたのでした。
特に近藤勇さんのbehaviorで好きなのは、大政奉還後に「甲陽鎮撫隊」を結成し甲府へ政府軍との最終戦争に向かう際の酒池肉林のハチャメチャ道中です。
もうこの時点で近藤勇さんは端(はな)からやる気なくしていたのでしょうね。
後はどうやって死のうかと考えていたようで、素の多摩の成り上がり侍に戻ったような言動、振る舞いはとても共感がもてたものです。

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そうそう今日は板橋に出没しました。
久々に近藤勇さんの墓でもお参りしようかと思い墓地にいったところ、なな何と近藤勇さんの仮埋葬の場所が分かったのです。
ここには何度も来ていますが、全く気がつかなかったのです。
ということで今日は近藤勇さんの遺体を郷里まで搬送した秘話を以下によりご紹介します。

慶応4年4月25日、近藤勇は板橋で斬首、享年35歳でした。
板橋で斬首された勇の首級は、平尾一里塚で晒された後、京へ送られ三条河原に晒されました。
刑場に埋められた首のない遺体は勇の近親者の手によって、三日後の夜掘り出され、三鷹市大沢にある近藤勇の生家宮川家の菩提寺竜源寺に運ばれ、埋葬されました。
いつの世にも歴史の表面や、定説には出てこない言い伝えや秘話がありますが、この近藤勇の遺体運搬に関しても興味深い話しがあります。
近藤勇五郎の娘、こんさんの夫君である峰岸徳太郎氏から直接私が聞いた話なのですが、板橋刑場から竜源寺へ、勇の遺体を運ぶ途中、いったん成願寺へ立ち寄ったというのです。
その理由は、成願寺におつね(近藤勇妻)と瓊子(近藤勇娘)がいたからというばかりではなく、夜道恐ろしい刑場から遺体を納めた箱を荷物に見せかけて、駕篭で運んでくるその恐怖と疲労で、一同たいへんだったからというのです。
それで、成願寺に立ち寄り、ここで一休みしたのだと徳太郎氏は説明しました。
今までの通説をくつがえす、青天の霹靂とはこのことでしょう。しかし、この話は十分ありうることです。
板橋刑場からどんな道を通って成願寺まで来たのか、一行の足取りはよくわかりません。いずれにしても人目を避けて間道から間道を、近道を選んで走ってきたのでしょう。
徳太郎氏の話から想像すれば、成願寺にはこの時おつね母子がいて、勇の遺体の到着を待っていたものと考えられます。
そうでなければ、成願寺へ立ち寄る必要は半減してしまいます。また、成願寺側の受け入れ態勢は、すでに福田平馬によって万全に調えられていたとみてよいかもしれません。
成願寺へ辿り着いた一行は、おつねが差し出す浄め酒や、茶菓子の接待で、どんなにかホッとして、生き返った心地になったでしょう。むろん、近藤勇の霊も、東堂黄河源霊大和尚によって、手厚い供養を受けたことと思われます。
一息いれた一行は、また夜陰を黙々とひた走ったのです。
ここからの行程は、おそらく成願寺から青梅街道へ出て、現在の地下鉄新高円寺駅付近を左折して五日市街道に入り、間道(当時は畑道)伝いに南進して甲州街道へ出たか、あるいは、五日市街道を西に進み、高井戸宿の手前で人見街道に入り、大沢へ出たのかもしれません。
「物語・成願寺と新選組」赤間倭子著より転載


すごいでしょう、近藤勇さんの首なし遺体を郷里まで運んだ人がいたのです。
これは近藤勇五郎(勇の養子、当時18歳)の証言によると、近藤勇五郎の実父で勇の長兄の宮川音五郎、近藤勇五郎、宮川弥吉(勇の親戚)、村の駕籠かき4人合計7人で、板橋へ向い、処刑から3日目の4月28日の深夜、近藤勇さんの遺体を堀出し、帰還したとしています。

これって何気ない偶然が端緒なのですよ。
近藤勇五郎さんは、たまさか最近の養父の動静をみに処刑の日まで逗留させられていた板橋にきたところ、まさにその日が偶然にも近藤勇さんの処刑の日だったのです。
彼はその処刑の一部始終と近藤勇さんの埋葬された場所までを見届けています。
その日の内に多摩調布の上石原の実家に戻り家族・親戚一同にその日の顛末を報告しています。そして家族・親戚が密かに持ち帰る段取りをつけて上述の遺体搬送の運びとなったのですね。

真夜中とはいえ煌々とした明かりで作業すると官軍に発見されるriskがありますので、ほとんど漆黒の闇の中で行われた作業です。この場所は刑場ですから処刑された死体が夥(おびただ)しく埋まっているのです。したがって皆首がないために取り違える可能性もかなり高いわけです。
近藤勇五郎さんが埋めた場所を覚えていたことがこの蛮行を推進できたのですが、唯一の手掛かりは、御陵衛士達から京都、墨染でうけた「左肩の鉄砲傷」です。
この傷は油小路の変で伊藤甲子太郎らを新撰組に殺害された高台寺党の残党、篠原泰之進や阿倍十郎らが伏見街道を通って帰ってくる近藤勇さんを待ち伏せし、丹波橋、墨染あたりで銃をかまえ、富山弥兵衛が発砲し近藤勇さんに命中させたものです。これは近藤勇さんの肩の骨を打ち砕く重傷となり、命に別条はなかったものの大怪我となりました。

閑話休題おはなしはもどりまして
いずれにしてもかなりオドロオドロしく、気味の悪い作業であることは間違いありません、よくやり遂げたものです。
反逆人の屍を掘り出すなど、当時としても大胆不敵すぎる行動ですし、もし捕らえられたら、彼らも投獄され連座の罪で処刑される可能性があったのですから、本当に昔の人って偉いものですよね。この話を思い出す度に、私は心を揺さぶる感動を禁じ得ないのです。

板橋刑場から中野成願寺までざっと9km、3時間弱ですか。中野成願寺から三鷹市大沢にある龍源寺までざっと15km、5時間弱ですか、深夜の道行ご本当に苦労様でした。


今日のお店は板橋名物の甘味屋「はちや」さんです。

住所: 東京都板橋区板橋1-18-6
電話:03-3961-1495
定休日:水曜日

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お店の外観です。

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店内の雰囲気です。

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メニューです。

創業から52年と地元板橋で営業をしており、現在は二代目店主夫妻と三代目さんの3名でお店を切り盛りしています。ちなみに三代目さんは現在独身(40歳越え?)でお嫁さん募集中だそうです。

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本日のオーダー「白玉ぜんざい」@500円です。
実は私は、大の甘党です。断酒してから特にその傾向が強くなってしまいました。
ここの餡子(あんこ)は、一切塩を入れてなく直球の甘さだそうです。

はたしてどうなのでしょう直球の甘さは・・・
待つこと6分で着器です。
それでは早速味わってみませう。
うん、これの甘さは鮮烈です。
何て言えばよいのでしょう、懐のない甘さっていうのでしょうか。
メリハリがきいています。
これは白玉で箸休めしないと、咥内がこの錐のようにな鋭い甘さに耐えきれません。
まどろこっしくない甘さを頂いたのは生れて初めてです。
とても心に残る一品でした。
美味しゅうございました。

それでは(^_-)

近藤勇異聞

三本足(松葉杖)歩行も五日目です。
雨です。
健常者の時は傘がさせないな位しか思ってませんでした、ところが以外な処に陥穽(かんせい)が有ったのです。
それは松葉杖が滑るのです。これかなり怖いのですネ。
特にタイル床では、ほとんどアイスホッケーの選手状態です。
仕事が22時30分頃終わり、帰ろうとしたらエレベーターホールに雨マーク(私のオフィスは高層にあるので雲が多いと下界が見えないため、お天気マークがエレベーターホールについています)が消えていたのでラッキーと思い帰路に着きました。
ところが自宅駅についたら、バケツをひっくり返したような大雨でした。
偶然長男と遭遇し彼のヘルプでタクシーにて帰宅しました。

今日のネタは近藤勇です。
調べれば調べるほどこの人、かなりよい人ですね。
先入観で勘違いしていたのですが、勇さんまず人を怒鳴り散らすことが有りません。
八木邸(新選組の一時期屯所だった処)近隣の町民には時候の挨拶もする極めて常識人です。尚且つあれだけ酒宴が多かったのに二日酔いの顔を見せたこともありません。

勇さんの最後は慶応4年4月25日です。
当時18歳の義理の息子の勇五郎君がお母さんの言いつけで、板橋の問屋場に拘束されているお父さんの安否を確認しに行ったところ、偶然その日にお父さんの処刑が確定したことを知ったのです。
彼の記憶によると、籠で処刑場に行く途中お父さんの顔を見たところ、顎鬚が少し延びて、幾らか青い顔だったそうですが、元気そうでした。
黒の紋付羽織に亀彩(かめあや)の袷(あわせ)、胸のあたりに網の目のように縄がかかっていました。
刑場につくと、しばらく空を見上げており、何故か裸足だったようです。
その後傍らの武士に、月代(さかやき)と髭をそってもらうように依頼しました。
それが済むと通る声で「ながながご厄介に相成った」というのが最後の言葉です。
(子母澤寛「新選組異聞」「始末記」より引用)

勇さんは一体何を考えて江戸の空を見上げていたのでしょうか。
彼の人生をみていると、人間というのは生きた長さではなくて、何をしたのかなと思います。
村上春樹的にいえば「存在とうものの意味を便宜的に際立たせる為に、あるいはまたその有限性の遠まわしとしての比喩としてどこかの地点に取り合えず終わりが設定されている」ということになるのでしょう。

享年35歳の人生でした(続く)

すみません、足が痛くて今日もお弁当です。
今日のお弁当は創業45年の中国料理の老舗、赤坂飯店鮭チャーハン中華弁当@700です。



味ですか、やはりチャーハンは冷めたら美味しくありません。
後他の食材も脂っこく、尚且つ味付けも一緒なので面白くも何ともありませんでした。
もう少しオカズにアクセントをつけるべきかと思います(怒)


今日は私が主催する「B食倶楽部」の7回目の会合なのに主宰が仕事及怪我の為欠席です。
ちなみに今回は主宰一押しのイタリアンレストランです。
会員から感想メールがきました。
とても美味しかったそうです(残念)
特に「エゾシカ肉の煮込み(主宰は食べた事がない)」が秀逸だったそうです。
仕事忙しくてシャメ頼むの忘れました(悲)


それでは(^_-)
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