今日は大好きな坂本竜馬の話です。
よってグルメネタではありませんが、最後まで読んでいただけるとアリガタイですm(__)m

竜馬の身長が180cmではなく168cmだったという話は以前ブログで書いたとおりですが、この人は現在も何かと喧(かまびす)しい限りです。

竜馬暗殺犯は明治3年2月から9月の間に聴取された、兵部省及び刑部賞省における今井信郎(のぶお)の口書(くちがき)判決によると、下手人は佐々木只三郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂準之助、土肥仲蔵、桜井大三郎、今井信郎の7名というのが公式供述となっています。
下母澤寛先生、大岡昇平先生も同様にこの口書判決を真としています。

また見廻組与頭佐々木只三郎(下手人)の実兄、会津藩士、手代木直右衛門が彦根藩金奉行石黒伝右衛門に宛てた書状が少し前に公表されました。
その書状が書かれた日付は、凶行の翌日の11月16日です。
その内容は「ごく内密に相談したい事件おこった、祇園の一力亭まで出てきてくれないか。その時全て話す。」とのことです。
京都でこの前後に起こった大きな事件といえば、竜馬暗殺ぐらいですので、相談の事件といえば実弟が起こした竜馬暗殺の件とみてよいといわれています。

私は司馬遼太郎の「竜馬がゆく」は、100回以上読んでいるので、私は勿論のこと竜馬ファンの過半の方は司馬遼太郎先生が描かれた竜馬象を受け入れていると思います。
しかし実際の竜馬は何の背景を持たない浪人でした。よって海援隊を作り自分の基盤を作ったのです。薩摩藩の「桂久武日記」にも、竜馬を雇い商事行為、諜報活動をさせていたという文言が少し前に発見され公表されています。
よって「竜馬がゆく」に書かれていた様な強い影響力は持ってはいなかったようです。

明治になって元上司の勝海舟が明治三年四月十五日に竜馬遭難時京都にいた大目付(職制上は老中に属し、大名・高家および朝廷を監視してこれらの謀反から幕府を守る監察官の役割を持った江戸時代の役職)松平勘太郎に今井信郎(下手人)の自供の内容を聞きに行っています。
それによると当時の幕府の警察部署の部長級の人間が寺田屋事件で竜馬に射殺された部下の復讐を図って、竜馬の殺害を指示したということでした。
今井自身も直接その部長級の指示を受けたわけではなく、この経緯は定かではありません。しかし最高責任者であった大目付松平勘太郎の耳には、この指示そのものも入ってなかったというのが真相の様です。
よって政治的背景は無かったといえます。

たしかに薩長同盟は竜馬の功績ですが、締結を果たした後にはお役御免となりました。
暗殺に遡ること10月14日、大政奉還がなされたその日に、奇しくも薩長に倒幕の密勅がおりており時代の趨勢は決まったのです。
よって薩長も幕府も無戦論者の竜馬を殺す理由は存在しえなかったのです。
維新のムーブメントは何人(なんびと)も、もはや止めることはできなかったのです。
その証左に西郷隆盛は竜馬暗殺の有る無しに係わらず、その暗殺の二日前には倒幕軍となる大兵を率い上京(京都)の途に着いています。
今みたいにネット情報も無い中で、竜馬が行った高度な政治活動が下々に周知される分けもなく、単に惨殺されたというのが冷静な歴史の見方かもしれませんね。
よって今井信郎も政治犯を殺したという感慨もなかったと考えられます。

一方竜馬の寓居先、近江屋の主人新助は竜馬の身に迫る危険を感じており、裏の土蔵に密室を作り、万一の時は梯子を降りて裏の称名寺へ逃げられる様準備をしていました。

私は大阪単身時代、京都の蛸薬師の称名寺(脱出する予定だったお寺)へ来るたびに、なんで竜馬はここから逃げなかったのだと歯噛んだことが思い起こされます。

参考文献:浅田次郎著「新選組読本」、「壬生義士伝」、司馬遼太郎著「竜馬がゆく」、「新選組読本」、子母澤寛著「新選組始末記」、「新選組遺文」「新選組物語」他

それでは(^_-)