今日は「水野十郎左衛門異聞」の話です。
歴史上の人物や著名人の墓を巡って、故人の足跡に思いをはせる人を「墓マイラー」と言います。このblogを良くご覧になられる方なら私がstereotypeの「墓マイラー」なのはご承知のことだと思います。
この日のBlogの通り泉岳寺にある赤穂浪士の墓参に出向いた私は、吉良上野介の墓参もしなければいけないだろうと考え、netで吉良上野介の墓を探していたのです。
吉良上野介の墓は中野区上高田にある萬昌院功運寺というお寺でした。それなら自宅よりすぐにでも行けるなとほくそ笑んでいたら、なな何とこのお寺には旗本奴、水野十郎左衛門の墓もあるではないですか。
実は私は水野十郎左衛門について、すご〜く興味を持っていた時期があったので、この偶然には歓喜雀躍したのでした。

水野十郎左衛門は、生年不詳ながら実在の人物です。
「旗本奴」の首領として悪名を馳(は)せた人物です。そして「旗本奴」と並ぶもう一方のヤクザ集団である「町奴(まちやっこ)」の親分「幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ)」を裏三番町の自宅の風呂場で謀殺したことで有名です。
生涯その不法な行動は止むことはなく、寛文4年(1664)、遂に切腹させられたということです。
切腹させられたのは「幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ)」を謀殺したことではありませんでした。「幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ)」を謀殺したのは明暦3年(1657年)7月18日でしたが、この事件について水野重郎左衛門はお咎めなしだったのですね。
その7年後の寛文4年(1664年)3月27日、行状不行跡(ぎょうじょうふぎょうせき)により幕府評定所に召喚された水野十郎左衛門は、わざと袴も着けず、ふり乱した髪には泥を塗りつけ、乞食同然の身なりだったといいます。これに激怒した時の幕府老中・土屋但馬守の命により、水野は即日切腹、水野家は家名断絶となったとのことです。

徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府が開かれたのは、慶長8年(1603)のことですが、2代将軍秀忠を経て、3代将軍家光の頃になると徳川幕府は安定期に入り、徳川家に反旗を翻(ひるがえ)す者はもういなくなりました。これから明治維新まで、200年以上も戦争のない平和な時代が続きます。
戦争がなくなると、武士は無用の長物となっていくのは自然の成り行きですが、そうなると武士の間に不平不満が蓄積していくのもこれまた自然の成り行きです。

徳川家直属の家来を旗本と呼ぶのですが、この旗本でも直接将軍に謁見(えっけん)する資格(御目見=おめみえと言います)のない者を御家人(ごけにん)と呼びます。このクラスの武士にとっては、ただ決められた俸禄(ほうろく、給料のことです)を受けるだけで何の役職にもつけません。サラリーマンで言えば窓際族の生活を送っているだけで出世の機会は永遠にありません。それでもまだ家督(かとく)を継げる長男ならまだしも、次男以下になると、長男が貰ったサラリーのおこぼれを頂戴して生きていくだけのやっかい者になってしまいます。
ちなみに水野十左衛門の家は3千石のお殿様でしたが、長男でない彼は只の穀潰(ごくつぶ)しだったのです。今でいえばセレブの出自でありながらニート、それなのに文武においては溢れんばかりの才能があります。
従ってこの溢れんばかりの才能を封止するがために、勢い飄逸奔放(ひょういつほんぽう)で自堕落な日常の中に自らを埋没させるしかなかったのですね。

そしてこのように世に受け入れられないこうした不平分子が徒党を組み、乱暴・狼藉(ろうぜき)を働く無頼(ぶらい)の集団になっていく訳ですが、これが水野十郎左衛門に代表される「旗本奴(はたもとやっこ)」だったのです。男伊達(おとこだて)を競い、喧嘩(けんか)と博打(ばくち)に明け暮れ、江戸市中を我が物顔で横行する「旗本奴」は、それでも身分が旗本であるだけに庶民からみれば全くもって迷惑な存在だったようです。

水野十郎左衛門が組織した「旗本奴」は、「白柄組(しらつかぐみ)」と呼ぶのですが、この他に「大小神祇組(だいしょうじんぎぐみ)」、「六法組」、「吉弥組(きちやぐみ)」、「鉄砲組」、「鶺鴒組(せきれいぐみ)」「笊籠組(ざるぐみ)と呼ばれる組がありました。それに対抗する町奴の頂点が幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ)の率いる「浅草組」だったのです。

そんな水野十郎左衛門達がよく行っていたeventの一つが「風流我慢会」でした。
彼等は夏と冬を取り違えることをもって、風流と心得ていたのです。
冬に夏の遊びをし、夏に冬の遊びをして、これを持って自己鍛錬としていました。

水野十郎左衛門は蝉も暑さで落ちんばかりの盛夏の日に、伝法院での「風流我慢会」に幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ)を招待しています。
当日は薪をうず高く盛った焚火を数か所に配置し、どれもこれも勢いのよい小山のような立ち昇った炎をみせていました。Dress codeは特別に厚くしたてた“どてら”の三枚重ねです。綿の重さだけで7.5kgあったというheavy dutyです。そして飲み物はチンチンと沸き立った熱湯熱燗です。このような中で「今日は、冷えるぜ」と真っ赤な顔で、そしてその顔面からは滝の様な汗を滴らせて大宴会を行っていたのでした。

ということで冒頭の通り、私は水野十郎左衛門について、このようにすごく興味を持っていたのです。如何ですか、私の拙文で水野十郎左衛門の心の闇を垣間見て頂ければ幸甚です。

ここから後は画像も見てください。

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まずは萬昌院功運寺の外観です。

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吉良上野介の墓です。

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水野十郎左衛門の墓です。

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幡随院長兵衛(ばんずいんちょうべい)の墓です。この画像は浅草の源空寺「幡隋院長兵衛(ばんずいいん ちょうべえ)の菩提寺)」さんが、正月の墓参客用の為に開いていたのでわざわざ撮ってきたものです。


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今日は上野に次男と出没です。
マラソンのrunning formをheal contact running(踵着地走法)からforefoot strike running(爪先着地走法)に変えたことから、それに合わせてrunning shoesを変えなければなりません。そのためにアートスポーツさんにrunning shoesを求めに来たのです。
今日はお盆期間中なのかいつも行くお気に入りのお店は休みでした。
ということで今日のお店は、唯一お盆期間中にもかかわらず営業していた「肉の大山」さんです。

住所: 東京都台東区上野6-13-2
電話番号:03-3831-9007
休日:元旦のみ

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御徒町のlandmark「吉池」さんが忽然となくなっていました。
建て直しのようですが全く知りませんでした。

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お店の外観です。

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店内の雰囲気です。

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メニューです。

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私のオーダー「牛肉生姜焼き&唐揚定食+ドリンクバー」@680円です。

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次男のオーダー「豚肉生姜焼き&唐揚定食+ドリンクバー+特製メンチ」@680円+@210=890円です。

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まずはメンチカツです。
ちょっと揚がりすぎですが安定した美味しい味です。
これは肉がとてもおいしいですね。

牛肉生姜焼き、豚肉生姜焼き&唐揚定食ですが、笑っちゃいけないのですが、これってほとんど肉そのものの味です。
たしかに肉屋さん直営のお店なので肉に自信があるのは結構なのですが、調理された味がほとんどないというのは驚きです。
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でもドリンクバーがついて、このボリューム、特に豚汁の肉の量のすごいことにはあらためてクリビツしました。
あいかわらず頓珍漢な接客をするマネージャーさんも、その頓珍漢振りを含めて健在でしたし、下町の洋食屋さんらしくてよい店だなとあらためて瞠目した次第です。
たまに下町に来た時に行くなら、こんなお店っていう感じでしょうか・・・

それでは(^_-)