今日は「死の餞別」です。
1931(昭和6)年9月18日の満州事変勃発から約3ヵ月後の12月12日午後4時ごろ、大阪の陸軍第4師団衛生隊、井上清一中尉が大阪市住吉区(当時)の自宅に帰ると、玄関に「井上は終日連隊にあり、御用の方はその方に」という貼り紙があった。
井上中尉は数え29、妻・千代子は21歳の新婚夫婦。翌13日に出征する予定で、最後の水入らずの夜を過ごすため帰宅したのだった。不審に思った中尉が家に駆け込むと、鮮血のなかに横たわる千代子の姿があった。
喪服を着た千代子は短刀で喉を切って自決していた。部屋には天皇、皇后の写真、机に夫と2人の実家宛ての遺書3通が置かれていた。台所には出征を祝う赤飯と鰍が準備されていた。
夫への遺書には次のような言葉がしたためられてあった。
「私の御主人様 私し嬉しくて嬉しくて胸が一ぱいで御座います。〔略〕明日の御出征に先立ち嬉しくこの世を去ります。何卒後のことを何一つ御心配下さいますな。〔略〕御国の御為に思ふ存分の働きを遊ばして下さい―」
戦場へ向かう夫への「死の餞別」である。世が軍国主義に染まりつつある時代とはいえ、千代子の自決は不可解だった。自決はかえって夫を苦しめ、生きて帰れない立場にするのではないか。
ところが新聞は陸軍の広報に乗って「美談」として大々的に報道した「渡満の井上夫人紋服姿で端然自刃す」「武人の妻の健気なる最期!」などの見出しが躍り、「衰めてやってくれ」という井上中尉のコメントが載った。
12月16日に大阪・阿倍野で 軍関係者など約1000人、一般参会者数万という盛大な葬儀が行われた。実家のある泉南郡長滝村(現・泉佐野市)では追悼会が催されたほか、近くの清福寺内に「殉国烈婦 井上千代子夫人之碑」と刻まれた顕彰碑が建立された。
千代子の「美談」は尋常小学校の教科奮に掲載されたほか、演劇、本に取りあげられた。文字通り『死の餓別』や『ああ井上中尉夫人』という映画まで作られた。
千代子の実家は裕福な地主だった。いまもその地に住む姪の永井蒙さん(68)は「7人兄弟の長女で、弟や妹の面倒を良くみた優等生だったようです。
父親のしつけは厳しかったと聞いています」と話す。
永井家には両親あての遺書が保管されているが、紙に鉛筆で走り書きされていて、前々からの覚悟のものには見えない。純情で真面目、人生経験の浅い若妻が衝動的に死を選んだのだろうか。
千代子の母校・岸和田高等女学校(現・和泉高校)の講堂には「模範的日本婦人」として遺影が掲げられ、後輩生徒たちは毎日拝礼したという。しかし教育現場には戸惑いもあった。
『和泉高校百年誌』に当時の岡村英敏校長の生徒への訓話が掲載されている。岡村校長は「昭和聖代の烈婦」とたたえながらも、千代子が前年に卒業したばかりで杜会経験が浅く、自決は「秩序ある漸修(段階的な修養)の結果ではない」と話している。
「夫君の生死と夫人の死はとは全く別問題であるから、私は夫君が故意に犠牲となる様なことがないようなに心からお祈り申し上げるものであります」
千代子の死が手本とされれば、出征する軍人の妻は皆自決しなければならない。妻に死なれた夫は、戦地で「手柄をたてなければ」と無理に死へと追いつめられるのではないか。
のちの玉砕、特攻につながる「死の賛美」の危うさを感じた岡村校長の苦渋の訓話だった。
「熱風の日本史」日本経済新聞より転載
久々に驚きました。
これってまさに「会津戦争の悲劇」が昭和になって再現されたのです。
「会津戦争の悲劇」が分からない方にそのsummaryを拙blogから引用します。
【QOT】
今日は「ある明治人の記録会津人柴五郎の遺書」の話です。
ここのところ明治維新にはまっています。今日のフリネタのこの本は「会津藩の悲劇を知らずして幕末維新を語ることなかれ」という内容で網羅されている一冊です。
この筆者は会津人で、朝敵の汚名を着せられた会津藩は藩ごとの流罪が如き辛酸を舐めさせられ、筆者自らも流刑地青森で生地獄をみます。その前の薩長の侵攻時には母姉妹は戦闘時の足手まといになるのを忌避し全員自刃するという壮絶な最後を遂げられたのです。
以下は当時11歳だった筆者が戦場から離れた避難場所で叔父に出会い、家人の様子を聞いたところ、叔父がおもむろにその最後を伝えた件(くだり)です。
今朝のことなり、敵城下に侵入したるも、御身の母をはじめ家人一同退去を肯(き)かず、祖母、母、兄嫁、姉、妹の五人潔く自刃されたり。余は乞われて介錯をいたし、家に火を放ちて参った。母君臨終に際して御身の保護養育を委嘱されたり。御身の悲痛もさることながら、これ武家の常なり。驚きかなしむにたらず。あきらめよ。いさぎよくあきらむべし。幼き妹までいさぎよく自刃して果てたるぞ。
「ある明治人の記録会津人柴五郎の遺書」中公新書より転載
当時の会津藩では同様の悲劇が散見されたようです、あらためて合掌です。
もともと維新は薩長軍が不平不満の貧乏公卿を巧みに利用して年若い天皇を抱きこみ、尊王を看板に、三百年来の私怨と政権奪取の野心によって倒幕を果たしたというのが私達下町の古老がよくいっていた話です。変革の時にはこのような光と影があるのは歴史の冷徹な事実でもあります。
【UNQOT】
しか〜し「会津の悲劇」とこの「昭和の死の餞別」は少し違うような気がします。
会津の悲劇で婦女子は集団自決の理由が「戦闘時の足手まとい」になるということでしたが、既にこの時には会津藩の兵站(物資の配給や整備)活動が破綻していて仮に生き延びても、会津の方々は餓死の悲劇が待ちうけていたのです。
まして薩摩藩・長州藩を中心とする明治新政府軍に捕らわれるriskもあったので「生きて虜囚の辱めを受けず」的な“日本伝統の恥の文化”も背景にあったのでしょう。
いずれにしても、この事を賛美しているのではなく、選択肢としてあり得るなと申しているだけです。
昭和の人々にとってこの会津での不幸な出来事は“No More A Tragedy Of Aizu !”だったのではないでしょうか。
この時点の日本は、既に全面戦争突入の為に全体主義が跋扈横行していて、そのような事を思っていても言えなかったのかもしれませんが・・・
それにしてもこの「昭和聖代の烈婦」には短慮を感じてしまうのです。
なんで自分が抱えていた悩みを家族・知人に相談しなかったのでしょうか。
それ以前になんで夫に相談しなかったのでしょうか。
相談された夫は、とてもいいことだ。是非とも死んで待っていてくれたまえ。俺も後から行くから、と言ったでしょうか。
多分、否(いな)、だと思います。
必ず生きて帰るから、武運長久を祈ってくれ、と返したのではないでしょうか。
これが普通のふるまいです。
分かりませんが、この「昭和聖代の烈婦」には些少の打算があったのかもしれません。
先に天に昇っていれば、間違いなく夫は生きて帰ることなく、天に自分を尋ねて昇ってくる、換言すれば「永久(とわ)の愛」がこの自裁によって完璧なものとなると思っていたのではないでしょうか。
たまらないのは軍人の妻です。
この自裁が賛美されればされるほど、出征する軍人の妻は皆自決しなければなりません。
妻に死なれた夫は、戦地で「手柄をたてなければ」と無理に死へと追いつめられるのです。
こういのを“合成の誤謬(個々人としては合理的な行動であっても、多くの人がその行動をとることによって、社会全体にとって不都合な結果が生じてくること)”というのでしょうね・・・
最後に21歳という若さで健気にも夫の事を案じて自裁された井上千代子さんに合掌です。
そして戦争反対です・・・・
今日は池袋に出没です。
これから出張ですが昼食時間が17分しかありません。
ということで本日はlight lunchです。
今日のお店は「ドトールコーヒーショップ」ルミネ池袋店さんです。
住所: 東京都豊島区西池袋1-11-1 ルミネ池袋 B1F
電話:03-3984-9060
定休日:無休
お店の外観です。
店の雰囲気です。
メニューです。
今日のオーダー「ミラノサンドCセット」@610円です。
「ミラノサンドC」とはチキンと生ハムのアボガドソースです。
light lunchなので多くは期待していませんが、以外にこれって美味しいのです。
アボガドソースが秀逸です。
最近ドトールさんでlight lunchを食べていて思うのですが、この珈琲に合せてソースを決めているのではないか、と。
多分間違ってないでしょう。
これからlight lunchはドトールさんで決め打ちです。
理由ですか・・・美味しい珈琲をいただきたいからです、キッパリ!
1931(昭和6)年9月18日の満州事変勃発から約3ヵ月後の12月12日午後4時ごろ、大阪の陸軍第4師団衛生隊、井上清一中尉が大阪市住吉区(当時)の自宅に帰ると、玄関に「井上は終日連隊にあり、御用の方はその方に」という貼り紙があった。
井上中尉は数え29、妻・千代子は21歳の新婚夫婦。翌13日に出征する予定で、最後の水入らずの夜を過ごすため帰宅したのだった。不審に思った中尉が家に駆け込むと、鮮血のなかに横たわる千代子の姿があった。
喪服を着た千代子は短刀で喉を切って自決していた。部屋には天皇、皇后の写真、机に夫と2人の実家宛ての遺書3通が置かれていた。台所には出征を祝う赤飯と鰍が準備されていた。
夫への遺書には次のような言葉がしたためられてあった。
「私の御主人様 私し嬉しくて嬉しくて胸が一ぱいで御座います。〔略〕明日の御出征に先立ち嬉しくこの世を去ります。何卒後のことを何一つ御心配下さいますな。〔略〕御国の御為に思ふ存分の働きを遊ばして下さい―」
戦場へ向かう夫への「死の餞別」である。世が軍国主義に染まりつつある時代とはいえ、千代子の自決は不可解だった。自決はかえって夫を苦しめ、生きて帰れない立場にするのではないか。
ところが新聞は陸軍の広報に乗って「美談」として大々的に報道した「渡満の井上夫人紋服姿で端然自刃す」「武人の妻の健気なる最期!」などの見出しが躍り、「衰めてやってくれ」という井上中尉のコメントが載った。
12月16日に大阪・阿倍野で 軍関係者など約1000人、一般参会者数万という盛大な葬儀が行われた。実家のある泉南郡長滝村(現・泉佐野市)では追悼会が催されたほか、近くの清福寺内に「殉国烈婦 井上千代子夫人之碑」と刻まれた顕彰碑が建立された。
千代子の「美談」は尋常小学校の教科奮に掲載されたほか、演劇、本に取りあげられた。文字通り『死の餓別』や『ああ井上中尉夫人』という映画まで作られた。
千代子の実家は裕福な地主だった。いまもその地に住む姪の永井蒙さん(68)は「7人兄弟の長女で、弟や妹の面倒を良くみた優等生だったようです。
父親のしつけは厳しかったと聞いています」と話す。
永井家には両親あての遺書が保管されているが、紙に鉛筆で走り書きされていて、前々からの覚悟のものには見えない。純情で真面目、人生経験の浅い若妻が衝動的に死を選んだのだろうか。
千代子の母校・岸和田高等女学校(現・和泉高校)の講堂には「模範的日本婦人」として遺影が掲げられ、後輩生徒たちは毎日拝礼したという。しかし教育現場には戸惑いもあった。
『和泉高校百年誌』に当時の岡村英敏校長の生徒への訓話が掲載されている。岡村校長は「昭和聖代の烈婦」とたたえながらも、千代子が前年に卒業したばかりで杜会経験が浅く、自決は「秩序ある漸修(段階的な修養)の結果ではない」と話している。
「夫君の生死と夫人の死はとは全く別問題であるから、私は夫君が故意に犠牲となる様なことがないようなに心からお祈り申し上げるものであります」
千代子の死が手本とされれば、出征する軍人の妻は皆自決しなければならない。妻に死なれた夫は、戦地で「手柄をたてなければ」と無理に死へと追いつめられるのではないか。
のちの玉砕、特攻につながる「死の賛美」の危うさを感じた岡村校長の苦渋の訓話だった。
「熱風の日本史」日本経済新聞より転載
久々に驚きました。
これってまさに「会津戦争の悲劇」が昭和になって再現されたのです。
「会津戦争の悲劇」が分からない方にそのsummaryを拙blogから引用します。
【QOT】
今日は「ある明治人の記録会津人柴五郎の遺書」の話です。
ここのところ明治維新にはまっています。今日のフリネタのこの本は「会津藩の悲劇を知らずして幕末維新を語ることなかれ」という内容で網羅されている一冊です。
この筆者は会津人で、朝敵の汚名を着せられた会津藩は藩ごとの流罪が如き辛酸を舐めさせられ、筆者自らも流刑地青森で生地獄をみます。その前の薩長の侵攻時には母姉妹は戦闘時の足手まといになるのを忌避し全員自刃するという壮絶な最後を遂げられたのです。
以下は当時11歳だった筆者が戦場から離れた避難場所で叔父に出会い、家人の様子を聞いたところ、叔父がおもむろにその最後を伝えた件(くだり)です。
今朝のことなり、敵城下に侵入したるも、御身の母をはじめ家人一同退去を肯(き)かず、祖母、母、兄嫁、姉、妹の五人潔く自刃されたり。余は乞われて介錯をいたし、家に火を放ちて参った。母君臨終に際して御身の保護養育を委嘱されたり。御身の悲痛もさることながら、これ武家の常なり。驚きかなしむにたらず。あきらめよ。いさぎよくあきらむべし。幼き妹までいさぎよく自刃して果てたるぞ。
「ある明治人の記録会津人柴五郎の遺書」中公新書より転載
当時の会津藩では同様の悲劇が散見されたようです、あらためて合掌です。
もともと維新は薩長軍が不平不満の貧乏公卿を巧みに利用して年若い天皇を抱きこみ、尊王を看板に、三百年来の私怨と政権奪取の野心によって倒幕を果たしたというのが私達下町の古老がよくいっていた話です。変革の時にはこのような光と影があるのは歴史の冷徹な事実でもあります。
【UNQOT】
しか〜し「会津の悲劇」とこの「昭和の死の餞別」は少し違うような気がします。
会津の悲劇で婦女子は集団自決の理由が「戦闘時の足手まとい」になるということでしたが、既にこの時には会津藩の兵站(物資の配給や整備)活動が破綻していて仮に生き延びても、会津の方々は餓死の悲劇が待ちうけていたのです。
まして薩摩藩・長州藩を中心とする明治新政府軍に捕らわれるriskもあったので「生きて虜囚の辱めを受けず」的な“日本伝統の恥の文化”も背景にあったのでしょう。
いずれにしても、この事を賛美しているのではなく、選択肢としてあり得るなと申しているだけです。
昭和の人々にとってこの会津での不幸な出来事は“No More A Tragedy Of Aizu !”だったのではないでしょうか。
この時点の日本は、既に全面戦争突入の為に全体主義が跋扈横行していて、そのような事を思っていても言えなかったのかもしれませんが・・・
それにしてもこの「昭和聖代の烈婦」には短慮を感じてしまうのです。
なんで自分が抱えていた悩みを家族・知人に相談しなかったのでしょうか。
それ以前になんで夫に相談しなかったのでしょうか。
相談された夫は、とてもいいことだ。是非とも死んで待っていてくれたまえ。俺も後から行くから、と言ったでしょうか。
多分、否(いな)、だと思います。
必ず生きて帰るから、武運長久を祈ってくれ、と返したのではないでしょうか。
これが普通のふるまいです。
分かりませんが、この「昭和聖代の烈婦」には些少の打算があったのかもしれません。
先に天に昇っていれば、間違いなく夫は生きて帰ることなく、天に自分を尋ねて昇ってくる、換言すれば「永久(とわ)の愛」がこの自裁によって完璧なものとなると思っていたのではないでしょうか。
たまらないのは軍人の妻です。
この自裁が賛美されればされるほど、出征する軍人の妻は皆自決しなければなりません。
妻に死なれた夫は、戦地で「手柄をたてなければ」と無理に死へと追いつめられるのです。
こういのを“合成の誤謬(個々人としては合理的な行動であっても、多くの人がその行動をとることによって、社会全体にとって不都合な結果が生じてくること)”というのでしょうね・・・
最後に21歳という若さで健気にも夫の事を案じて自裁された井上千代子さんに合掌です。
そして戦争反対です・・・・
今日は池袋に出没です。
これから出張ですが昼食時間が17分しかありません。
ということで本日はlight lunchです。
今日のお店は「ドトールコーヒーショップ」ルミネ池袋店さんです。
住所: 東京都豊島区西池袋1-11-1 ルミネ池袋 B1F
電話:03-3984-9060
定休日:無休
お店の外観です。
店の雰囲気です。
メニューです。
今日のオーダー「ミラノサンドCセット」@610円です。
「ミラノサンドC」とはチキンと生ハムのアボガドソースです。
light lunchなので多くは期待していませんが、以外にこれって美味しいのです。
アボガドソースが秀逸です。
最近ドトールさんでlight lunchを食べていて思うのですが、この珈琲に合せてソースを決めているのではないか、と。
多分間違ってないでしょう。
これからlight lunchはドトールさんで決め打ちです。
理由ですか・・・美味しい珈琲をいただきたいからです、キッパリ!