今日は「近藤勇異聞」の話です。
近藤勇さんは新撰組の中では土方歳三さんの次に好きな方です。
まあ実際に会ったことが無いので、すべて浅田次郎著「新選組読本」、「壬生義士伝」、司馬遼太郎著「竜馬がゆく」、「新選組読本」、子母澤寛著「新選組始末記」、「新選組遺文」「新選組物語」等の本からの擦り込みですがね。
真面目な多摩の田舎剣士がひょんなことから時代の潮流に巻き込まれてしまい、その中でひたすら武骨に誠の武士になろうと邁進していたのです。そして土方歳三という名producerを得たことにより最後は旗本まで栄達したのですね。
しかし滅私奉公した為政者が徳川慶喜というlame duck(政治的な影響力を失った権力者)だったが為に、最後はあたかも急な坂道を転げ落ちるようにしてその終焉を向かえたのでした。
特に近藤勇さんのbehaviorで好きなのは、大政奉還後に「甲陽鎮撫隊」を結成し甲府へ政府軍との最終戦争に向かう際の酒池肉林のハチャメチャ道中です。
もうこの時点で近藤勇さんは端(はな)からやる気なくしていたのでしょうね。
後はどうやって死のうかと考えていたようで、素の多摩の成り上がり侍に戻ったような言動、振る舞いはとても共感がもてたものです。
そうそう今日は板橋に出没しました。
久々に近藤勇さんの墓でもお参りしようかと思い墓地にいったところ、なな何と近藤勇さんの仮埋葬の場所が分かったのです。
ここには何度も来ていますが、全く気がつかなかったのです。
ということで今日は近藤勇さんの遺体を郷里まで搬送した秘話を以下によりご紹介します。
慶応4年4月25日、近藤勇は板橋で斬首、享年35歳でした。
板橋で斬首された勇の首級は、平尾一里塚で晒された後、京へ送られ三条河原に晒されました。
刑場に埋められた首のない遺体は勇の近親者の手によって、三日後の夜掘り出され、三鷹市大沢にある近藤勇の生家宮川家の菩提寺竜源寺に運ばれ、埋葬されました。
いつの世にも歴史の表面や、定説には出てこない言い伝えや秘話がありますが、この近藤勇の遺体運搬に関しても興味深い話しがあります。
近藤勇五郎の娘、こんさんの夫君である峰岸徳太郎氏から直接私が聞いた話なのですが、板橋刑場から竜源寺へ、勇の遺体を運ぶ途中、いったん成願寺へ立ち寄ったというのです。
その理由は、成願寺におつね(近藤勇妻)と瓊子(近藤勇娘)がいたからというばかりではなく、夜道恐ろしい刑場から遺体を納めた箱を荷物に見せかけて、駕篭で運んでくるその恐怖と疲労で、一同たいへんだったからというのです。
それで、成願寺に立ち寄り、ここで一休みしたのだと徳太郎氏は説明しました。
今までの通説をくつがえす、青天の霹靂とはこのことでしょう。しかし、この話は十分ありうることです。
板橋刑場からどんな道を通って成願寺まで来たのか、一行の足取りはよくわかりません。いずれにしても人目を避けて間道から間道を、近道を選んで走ってきたのでしょう。
徳太郎氏の話から想像すれば、成願寺にはこの時おつね母子がいて、勇の遺体の到着を待っていたものと考えられます。
そうでなければ、成願寺へ立ち寄る必要は半減してしまいます。また、成願寺側の受け入れ態勢は、すでに福田平馬によって万全に調えられていたとみてよいかもしれません。
成願寺へ辿り着いた一行は、おつねが差し出す浄め酒や、茶菓子の接待で、どんなにかホッとして、生き返った心地になったでしょう。むろん、近藤勇の霊も、東堂黄河源霊大和尚によって、手厚い供養を受けたことと思われます。
一息いれた一行は、また夜陰を黙々とひた走ったのです。
ここからの行程は、おそらく成願寺から青梅街道へ出て、現在の地下鉄新高円寺駅付近を左折して五日市街道に入り、間道(当時は畑道)伝いに南進して甲州街道へ出たか、あるいは、五日市街道を西に進み、高井戸宿の手前で人見街道に入り、大沢へ出たのかもしれません。
「物語・成願寺と新選組」赤間倭子著より転載
すごいでしょう、近藤勇さんの首なし遺体を郷里まで運んだ人がいたのです。
これは近藤勇五郎(勇の養子、当時18歳)の証言によると、近藤勇五郎の実父で勇の長兄の宮川音五郎、近藤勇五郎、宮川弥吉(勇の親戚)、村の駕籠かき4人合計7人で、板橋へ向い、処刑から3日目の4月28日の深夜、近藤勇さんの遺体を堀出し、帰還したとしています。
これって何気ない偶然が端緒なのですよ。
近藤勇五郎さんは、たまさか最近の養父の動静をみに処刑の日まで逗留させられていた板橋にきたところ、まさにその日が偶然にも近藤勇さんの処刑の日だったのです。
彼はその処刑の一部始終と近藤勇さんの埋葬された場所までを見届けています。
その日の内に多摩調布の上石原の実家に戻り家族・親戚一同にその日の顛末を報告しています。そして家族・親戚が密かに持ち帰る段取りをつけて上述の遺体搬送の運びとなったのですね。
真夜中とはいえ煌々とした明かりで作業すると官軍に発見されるriskがありますので、ほとんど漆黒の闇の中で行われた作業です。この場所は刑場ですから処刑された死体が夥(おびただ)しく埋まっているのです。したがって皆首がないために取り違える可能性もかなり高いわけです。
近藤勇五郎さんが埋めた場所を覚えていたことがこの蛮行を推進できたのですが、唯一の手掛かりは、御陵衛士達から京都、墨染でうけた「左肩の鉄砲傷」です。
この傷は油小路の変で伊藤甲子太郎らを新撰組に殺害された高台寺党の残党、篠原泰之進や阿倍十郎らが伏見街道を通って帰ってくる近藤勇さんを待ち伏せし、丹波橋、墨染あたりで銃をかまえ、富山弥兵衛が発砲し近藤勇さんに命中させたものです。これは近藤勇さんの肩の骨を打ち砕く重傷となり、命に別条はなかったものの大怪我となりました。
閑話休題
いずれにしてもかなりオドロオドロしく、気味の悪い作業であることは間違いありません、よくやり遂げたものです。
反逆人の屍を掘り出すなど、当時としても大胆不敵すぎる行動ですし、もし捕らえられたら、彼らも投獄され連座の罪で処刑される可能性があったのですから、本当に昔の人って偉いものですよね。この話を思い出す度に、私は心を揺さぶる感動を禁じ得ないのです。
板橋刑場から中野成願寺までざっと9km、3時間弱ですか。中野成願寺から三鷹市大沢にある龍源寺までざっと15km、5時間弱ですか、深夜の道行ご本当に苦労様でした。
今日のお店は板橋名物の甘味屋「はちや」さんです。
住所: 東京都板橋区板橋1-18-6
電話:03-3961-1495
定休日:水曜日
お店の外観です。
店内の雰囲気です。
メニューです。
創業から52年と地元板橋で営業をしており、現在は二代目店主夫妻と三代目さんの3名でお店を切り盛りしています。ちなみに三代目さんは現在独身(40歳越え?)でお嫁さん募集中だそうです。
本日のオーダー「白玉ぜんざい」@500円です。
実は私は、大の甘党です。断酒してから特にその傾向が強くなってしまいました。
ここの餡子(あんこ)は、一切塩を入れてなく直球の甘さだそうです。
はたしてどうなのでしょう直球の甘さは・・・
待つこと6分で着器です。
それでは早速味わってみませう。
うん、これの甘さは鮮烈です。
何て言えばよいのでしょう、懐のない甘さっていうのでしょうか。
メリハリがきいています。
これは白玉で箸休めしないと、咥内がこの錐のようにな鋭い甘さに耐えきれません。
まどろこっしくない甘さを頂いたのは生れて初めてです。
とても心に残る一品でした。
美味しゅうございました。
近藤勇さんは新撰組の中では土方歳三さんの次に好きな方です。
まあ実際に会ったことが無いので、すべて浅田次郎著「新選組読本」、「壬生義士伝」、司馬遼太郎著「竜馬がゆく」、「新選組読本」、子母澤寛著「新選組始末記」、「新選組遺文」「新選組物語」等の本からの擦り込みですがね。
真面目な多摩の田舎剣士がひょんなことから時代の潮流に巻き込まれてしまい、その中でひたすら武骨に誠の武士になろうと邁進していたのです。そして土方歳三という名producerを得たことにより最後は旗本まで栄達したのですね。
しかし滅私奉公した為政者が徳川慶喜というlame duck(政治的な影響力を失った権力者)だったが為に、最後はあたかも急な坂道を転げ落ちるようにしてその終焉を向かえたのでした。
特に近藤勇さんのbehaviorで好きなのは、大政奉還後に「甲陽鎮撫隊」を結成し甲府へ政府軍との最終戦争に向かう際の酒池肉林のハチャメチャ道中です。
もうこの時点で近藤勇さんは端(はな)からやる気なくしていたのでしょうね。
後はどうやって死のうかと考えていたようで、素の多摩の成り上がり侍に戻ったような言動、振る舞いはとても共感がもてたものです。
そうそう今日は板橋に出没しました。
久々に近藤勇さんの墓でもお参りしようかと思い墓地にいったところ、なな何と近藤勇さんの仮埋葬の場所が分かったのです。
ここには何度も来ていますが、全く気がつかなかったのです。
ということで今日は近藤勇さんの遺体を郷里まで搬送した秘話を以下によりご紹介します。
慶応4年4月25日、近藤勇は板橋で斬首、享年35歳でした。
板橋で斬首された勇の首級は、平尾一里塚で晒された後、京へ送られ三条河原に晒されました。
刑場に埋められた首のない遺体は勇の近親者の手によって、三日後の夜掘り出され、三鷹市大沢にある近藤勇の生家宮川家の菩提寺竜源寺に運ばれ、埋葬されました。
いつの世にも歴史の表面や、定説には出てこない言い伝えや秘話がありますが、この近藤勇の遺体運搬に関しても興味深い話しがあります。
近藤勇五郎の娘、こんさんの夫君である峰岸徳太郎氏から直接私が聞いた話なのですが、板橋刑場から竜源寺へ、勇の遺体を運ぶ途中、いったん成願寺へ立ち寄ったというのです。
その理由は、成願寺におつね(近藤勇妻)と瓊子(近藤勇娘)がいたからというばかりではなく、夜道恐ろしい刑場から遺体を納めた箱を荷物に見せかけて、駕篭で運んでくるその恐怖と疲労で、一同たいへんだったからというのです。
それで、成願寺に立ち寄り、ここで一休みしたのだと徳太郎氏は説明しました。
今までの通説をくつがえす、青天の霹靂とはこのことでしょう。しかし、この話は十分ありうることです。
板橋刑場からどんな道を通って成願寺まで来たのか、一行の足取りはよくわかりません。いずれにしても人目を避けて間道から間道を、近道を選んで走ってきたのでしょう。
徳太郎氏の話から想像すれば、成願寺にはこの時おつね母子がいて、勇の遺体の到着を待っていたものと考えられます。
そうでなければ、成願寺へ立ち寄る必要は半減してしまいます。また、成願寺側の受け入れ態勢は、すでに福田平馬によって万全に調えられていたとみてよいかもしれません。
成願寺へ辿り着いた一行は、おつねが差し出す浄め酒や、茶菓子の接待で、どんなにかホッとして、生き返った心地になったでしょう。むろん、近藤勇の霊も、東堂黄河源霊大和尚によって、手厚い供養を受けたことと思われます。
一息いれた一行は、また夜陰を黙々とひた走ったのです。
ここからの行程は、おそらく成願寺から青梅街道へ出て、現在の地下鉄新高円寺駅付近を左折して五日市街道に入り、間道(当時は畑道)伝いに南進して甲州街道へ出たか、あるいは、五日市街道を西に進み、高井戸宿の手前で人見街道に入り、大沢へ出たのかもしれません。
「物語・成願寺と新選組」赤間倭子著より転載
すごいでしょう、近藤勇さんの首なし遺体を郷里まで運んだ人がいたのです。
これは近藤勇五郎(勇の養子、当時18歳)の証言によると、近藤勇五郎の実父で勇の長兄の宮川音五郎、近藤勇五郎、宮川弥吉(勇の親戚)、村の駕籠かき4人合計7人で、板橋へ向い、処刑から3日目の4月28日の深夜、近藤勇さんの遺体を堀出し、帰還したとしています。
これって何気ない偶然が端緒なのですよ。
近藤勇五郎さんは、たまさか最近の養父の動静をみに処刑の日まで逗留させられていた板橋にきたところ、まさにその日が偶然にも近藤勇さんの処刑の日だったのです。
彼はその処刑の一部始終と近藤勇さんの埋葬された場所までを見届けています。
その日の内に多摩調布の上石原の実家に戻り家族・親戚一同にその日の顛末を報告しています。そして家族・親戚が密かに持ち帰る段取りをつけて上述の遺体搬送の運びとなったのですね。
真夜中とはいえ煌々とした明かりで作業すると官軍に発見されるriskがありますので、ほとんど漆黒の闇の中で行われた作業です。この場所は刑場ですから処刑された死体が夥(おびただ)しく埋まっているのです。したがって皆首がないために取り違える可能性もかなり高いわけです。
近藤勇五郎さんが埋めた場所を覚えていたことがこの蛮行を推進できたのですが、唯一の手掛かりは、御陵衛士達から京都、墨染でうけた「左肩の鉄砲傷」です。
この傷は油小路の変で伊藤甲子太郎らを新撰組に殺害された高台寺党の残党、篠原泰之進や阿倍十郎らが伏見街道を通って帰ってくる近藤勇さんを待ち伏せし、丹波橋、墨染あたりで銃をかまえ、富山弥兵衛が発砲し近藤勇さんに命中させたものです。これは近藤勇さんの肩の骨を打ち砕く重傷となり、命に別条はなかったものの大怪我となりました。
閑話休題
いずれにしてもかなりオドロオドロしく、気味の悪い作業であることは間違いありません、よくやり遂げたものです。
反逆人の屍を掘り出すなど、当時としても大胆不敵すぎる行動ですし、もし捕らえられたら、彼らも投獄され連座の罪で処刑される可能性があったのですから、本当に昔の人って偉いものですよね。この話を思い出す度に、私は心を揺さぶる感動を禁じ得ないのです。
板橋刑場から中野成願寺までざっと9km、3時間弱ですか。中野成願寺から三鷹市大沢にある龍源寺までざっと15km、5時間弱ですか、深夜の道行ご本当に苦労様でした。
今日のお店は板橋名物の甘味屋「はちや」さんです。
住所: 東京都板橋区板橋1-18-6
電話:03-3961-1495
定休日:水曜日
お店の外観です。
店内の雰囲気です。
メニューです。
創業から52年と地元板橋で営業をしており、現在は二代目店主夫妻と三代目さんの3名でお店を切り盛りしています。ちなみに三代目さんは現在独身(40歳越え?)でお嫁さん募集中だそうです。
本日のオーダー「白玉ぜんざい」@500円です。
実は私は、大の甘党です。断酒してから特にその傾向が強くなってしまいました。
ここの餡子(あんこ)は、一切塩を入れてなく直球の甘さだそうです。
はたしてどうなのでしょう直球の甘さは・・・
待つこと6分で着器です。
それでは早速味わってみませう。
うん、これの甘さは鮮烈です。
何て言えばよいのでしょう、懐のない甘さっていうのでしょうか。
メリハリがきいています。
これは白玉で箸休めしないと、咥内がこの錐のようにな鋭い甘さに耐えきれません。
まどろこっしくない甘さを頂いたのは生れて初めてです。
とても心に残る一品でした。
美味しゅうございました。