下町っ子の上の空

好奇心が人一倍強く、見栄っ張りで、お人好しの下町っ子のBlogです。 ウンチクネタがくどいのがたまに傷ですが、お気軽にお立ち寄り下さい。

夏目鏡子

花巻 麺房高松庵

今日は「夏目漱石異聞 其の参」です。
夏目漱石さんは、江戸時代末期の1867(慶応3)年、江戸の牛込馬場下(現在の東京都新宿区)に生まれました。
東京帝国大学(現在の東京大学)の講師等を経て38歳にして「吾輩は猫である」で小説家デビューを果たし、以後亡くなるまでの約10年間に、「坊っちゃん」「こころ」といった数々の名作を著しています。
実は夏目漱石さんは大好きです。
高校三年生の時に名作「三四郎」を読んでノックアウトされた為です。
爾来、この作家とその妻の奥様である鏡子さんに興味をもって接してきました。
実際、次男の高校は敢えて漱石さんが住んでいた家の隣の学校にしたほどです。

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世間では鏡子さんはソクラテスの妻と並び称されるほどの悪妻として通っていましたが、当のご本人は、自分だからあの漱石とやっていけたのだと、むしろ褒めてあげたいくらいのことが沢山あったのだ、と自賛していました。
しか〜し以下のようなエピソードもありました。
漱石さんが大阪の講演の後、疲労による胃の不調で入院した時に、鏡子さんが東京からすっ飛んできたのですが、病室に入ったとたん、見舞客の菓子折りを見つけて「大阪ではこんなものを病室におくのか」と言って、詰めていた朝日新聞関係者をなじりました。
それを見ていた漱石さんは「まあそこまでいわんでもよかろう。お前はお守りなぞを、私にわからぬようポケットへ入れてくれたが、それでも病気になったじゃないか」と苦笑いしながらその場をとりなしたそうです。

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漱石さんは、写真で見る限りでは「苦虫を噛み潰したような顔」をしていますが、実態は東京の町屋の旦那といった風情で、学者や文士みたいに権威や退廃を自慢するような人ではなかったようです。
加えてドレスコードは、かなりラフだったようです。
特に性格は学者や文士とはおおいに異なり、几帳面で事務的且つ約束と義理は必ず守ったそうです。
実際、漱石さんは朝日新聞の社員であったことから、小説の過半は新聞での連載という形を取っており、連載中断を回避する為に胃潰瘍で病床にあった時も書き続けていたのです。

学業優秀、特に英語は頭抜けて優れていて、東京帝国大学では英文科特待生に選ばれ、J・M・ディクソン教授の依頼で「方丈記」の英訳をするなどの誉れがあります。
その一方で、大の落語好きで、特に柳家小さん(三代目)が贔屓でした。
「小さんは天才である。彼と時を同じうして生きている我々は大変な仕合せである」と名著「三四郎」の中で書いている程です。具体的に大ヒット小説「吾輩は猫である」の中では、随所に落語のワーディングが使われていました。
実際に漱石さんの講演では「どこかの新聞に僕の事を風上におけぬ奴だと書いてあったが、僕を肥桶(こえおけ)だと思っているんだろうか。吾輩は子の通り立派な男でハイカラにできている」とか「可愛い子には旅をさせろという事は、足の裏へ豆をこしらえろ、というのではない。つまり世の中の状態を知らせるために、可愛い子突き放すのであるから、自然派の親爺といってよろしい」とか言って笑いを取っています。
要は、漱石さんは、落語を通して、人が笑ったり、喜んだり、怒ったり、しんみりさせたりする言葉を熟知していて、実際に多用していたいみたいです。
さら〜に、イギリスに留学して最高、最新の英語、英文学を学び英語感に磨きをかけました。
夏目漱石
実際、奥様の鏡子さんは帰国後の漱石さんを、これだけ沢山の分厚い英文学書と毎日夜遅くまで格闘している姿を見ていて、何をしているかわからないけれど、このひたむきな姿が報われないとこはないと迄言わしめたほどでした。要は、漱石さんは、小さんの口語体を下地に当時の最高の言語学を学んで、平明でしなやか、しかも意識の内側のことや、大局的な事柄も搭載できる現代日本語を作り上げたことが最大の功績でしょう。

最後に次のエピソードを紹介します。
ある日のこと、胃の悪い漱石さんを気遣った鏡子さんは、食べ過ぎないように好物のようかんを隠したそうです。すると漱石さんは、ようかんが入っているはずの戸棚を必死に探し続けていました。
すると、その必死さを見かねた幼い娘さんが、お父さんここにようかんがありますよ、と教えてやりますと、漱石さんは娘を最上級のほめ言葉で称え、笑みがこぼれんばかりの破顔でようかんを頬張ったそうです。
私は、このような幼弱性を持った天才を愛しています。
さら〜に大衆をマスとしてとらえずインディビジュアルなマス、すなわち個人の集まり、独り独りの集積体と見る流れは、大正デモクラシーへと繋がっていくのですが、それを推し進めたのが漱石さんでした。
今、私たちが民主主義という自由や平等といった権利を謳歌できる礎を作ったのが漱石さんだったというのは、正鵠を射ているといっても過言ではないでしょう。
参考文献「新聞記者夏目漱石」牧村健一郎著


サプライズ?



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今日はイーハトーブ花巻に出没です。

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今日のお店は美味しんぼの海原雄山になりすました雁屋哲さんが大絶賛した「暮坪そば」のお店です。
今日のお店は「麺房高松庵」 花巻店 さんです。

住所: 岩手県花巻市高松第11地割172-1
電話:0198-31-2888
定休日: 不定休

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お店の外観です。

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「暮坪かぶ」の紹介です。

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沢山の芸能人の方が来店されています。

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お店のこだわりです。

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店内の雰囲気です。

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メニューです。

今日のオーダー「暮坪そば松」@1,620円です。
このお店は、駅から1.4kmもありましたので歩いたら大変でした。
加えて良く来ていた花巻ですが、さすがに10年ぶりなので地理が不案内になりタクシーでお邪魔しました。
ちなみにタクシーの運転手さんは、この「暮坪そば」というかこのお店は一度も来たことがないそうです。
理由を聞きましたら、高いから、ですとメイクセンスであります。

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待つこと8分で「暮坪そば松」の到着です。
見た目豪華です。

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これが噂の「暮坪かぶのおろし」です。

天麩羅の面々です。
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今日の天麩羅は、海老、ピーマン、カボチャです。海老天麩羅の花の咲き方が弱いですね、やはりお蕎麦屋さんの天麩羅ですから素寒貧の海老じゃさまになりません。
実際、天麩羅の味は素寒貧とまではいいませんが、私の好みではありませんでした。

それでは蕎麦にいきます。
蕎麦は水切りが良くなくてだらっとした感じでしたがまずまずのお味です。
肝心の「暮坪かぶのおろし」です。
「究極の薬味」として海原雄山をうならせたこの蕪は、私の場合は峻烈すぎて喉がうなってしまいました。
どうでしょうか、蕎麦にここまでの辛い薬味が必要なのでしょうか。
それを希釈するかのように付け汁は甘く感じました。
部分最適ではありますが全体最適ではないような感じというのが総評です。

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最初の膳がきてから8分後に二枚目のせいろがきましたがtoo lateです。
ちょっと乾いていますね。
私が注文した時は、私しか客がいなかったのですから、頃合いをみて供して欲しかったものです。
その為に、甘いつけ汁に呻吟する事となりました。
所謂、観光名所蕎麦ですね。
失礼しました。私が海原雄山になれない事を証明できた花巻のランチでした。

それでは(^_-)

焼津 山正亭

今日は「子供の教育」です。
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この画像に写っている中年男性の前の自転車は数分前まで倒れていました。
私の眼の前を疾風のように通り過ぎた若者の肩掛けバッグがこの自転車にあたりコロンと倒れたのです。
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すると私と反対側から歩いてきた可愛らしい女の子がこの自転車に近づいて元の状態に直したのです。
そしてその善行を終えますと何事もなかったかのように、またもと来た道に戻ってスタスタと歩いていったのです。
多分、ご両親の躾が良いのでしょう。
正直申して驚きました。
子を持つ親としてこのような優しい子供を育て上げたご両親に敬意を表します。

子育てを終えた今となって反省しきりです。
おかげさまで奥様の教育が良かったのか、私とは違って大変優しい子供に育っています。
翻って私は子供に過度の期待をしすぎたようです。
その為に教育はかなり厳しく行いました。
多分に、親の信念や価値観が子供に対する期待に色濃く入っていたみたいです。
私が子供の人生を通して、自らも何らかの満足感を得ようしていたものだと思います。

明治の悪妻と言われている夏目漱石夫人である鏡子さんは、息子の伸六さんが自らの小説で、巷間で言われる良妻賢母型とはおよそ縁の遠い女であることも事実である、と書かれているほど良い母ではなかったようです。
しか〜しこの母は、子供たちに対して、一度たりとも、偉くなれだの、もっと勉強しろ、などは云ったことはなかったようです。その為に、学校の成績が良かろうが悪かろうが、決してそのような事で子供を叱った事はありませんでした。
当の本人は父親(漱石)が早く死んだので、つい可哀想になって、子供たちをあまやかして育ててしまった、と述懐していますが、いかんせん明治の文豪夏目漱石の子息ですから、父に勝るとも劣らない、というような教育が普通ですので見上げたものです。
言い訳になるのですが、子供に対しては厳しく育てましたが、その実、自らがそのように厳しく育てられた結果、それなりの成果を出す事ができたので単にそれに準じただけです。
多分、親が厳しく接してくれなかったのなら、私はスライドアウトの人生を巡行して禄足(ろくた)らない人間になっていたのでしょう。
既になっているって、ほっといてください。


がんばれよ!



今日は焼津に出没です。
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この駅前って食べる処がないのですね。
来る前のイメージとしては築地の場外市場みたいな喧噪の駅前を想像していたのですが、来て見ましたら猫すら歩いていませんでした。従いまして今日のお店は探しに探しました。
今日のお店は「山正亭」さんです。

住所: 静岡県焼津市栄町4-2-2
電話:054-629-0730
定休日:火曜日

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お店の外観です。

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店内の雰囲気です。

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メニューです。

今日のオーダー「マグロステーキ丼&珈琲」@1,450+@200=1,650円です。

待つこと9分で「付け合せとサラダ」の到着です。
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金平牛蒡が美味しいです。
絶妙な味わいです。

待つこと14分で「マグロステーキ丼」の到着です。
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見た目ヘルシー丼です。

それでは実食です。
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鮪は地元焼津港で水揚げされたものを使用されている様です。
それでは実食です。
焼き加減が良いです。
外硬内柔です。
鮪の皮のカリカリが美味しいです。
鮪の身も弾力があり且つ甘くて結構です。
駆け回された刺身醤油的なタレが味を引き締めています。
美味しいですね。
これは鮪勝ちでしょう。
満足なランチでした。

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午後の打合せまで時間があったので珈琲を飲みながらまったりと時間をすごしていました。
たまにはこの様な余裕ある食事も良いですね・・・

それでは(^_-)

早稲田 ホドリ

今日は「漱石終焉の地を訪ねて」です。
今日は久々に時間がたっぷりあったので、夏目漱石の終焉の地を次男と訪れてきました。
ここから先は画像でお付き合いください。

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まずは夏目坂にある漱石誕生の地です。
漱石は慶応三年(1867年)2月9日、牛込馬場下横町(明治以降は、喜久井町)に、父夏目小兵衛直克と母千枝の五男として生まれました。
時代はまさに幕末の混乱期、その年の11月9日に徳川慶喜が体制を奉還、翌年には戊辰戦争、上野の山では「官軍」と「彰義隊」のすさまじい戦闘が行われました。
しかしこの場所は分かりにくいですね、スマホのナビを駆使して何とか辿りつきました。

漱石山房

漱石山房

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漱石終焉の地である「漱石山房」です。
漱石は朝日新聞に入社した後は、ここ漱石山房で本格的な作家活動を開始しています。
「三四郎」「それから」「こゝろ」「道草」などの作品を書き続けました。
「明暗」の執筆途中に、胃潰瘍が原因とみられる内出血により、大正5年(1916年)12月9日49年の生涯を閉じました。

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漱石の猫塚です。
猫塚は漱石の遺族が飼っていた猫や犬の供養に建てたもので,昭和28年(1953年)の漱石の命日に復元されたものです。
したがいまして「吾輩は猫である」の猫とは関係がありません、ニャンだ・・・
なおこの山房跡は現在新宿区が区立漱石公園として保全していますが、2015年には隣接する都営アパートを取り壊した跡地に山房が復元される予定になっています。

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漱石と奥様の鏡子さんです。

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晩年の鏡子夫人です。

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漱石の散歩道です。

最後に漱石のプチトリビアです。
1.漱石の本名は?
夏目漱石の本名は夏目金之助です。
庚申の日の申の刻に生れた漱石は、一つ間違えると大泥棒になるとのことでした。
しか〜し名前の前に金の字か金偏の字を選んで名付ければ難を逃れるという迷信から「金之助」と名付けられたそうです。
ちなみに漱石は号ですから。

2.漱石のなりたかった職業は?
建築家です。
漱石は、自分は変人だから変人でも日常欠かせない仕事をすれば、自然と人が仕事を頼みにくると考えていました。
また美術が好きなので建築を美術的にしてみたいというのも理由であったそうです。
しか〜し、第一高等中学校時代の同級生の米山保三郎に諭されて断念しました。

3.坊ちゃんの卒後した学校は?
東京理科大学です。
当時は東京物理学校といわれていました。
三代目校長の中村恭平は漱石と懇意で「吾輩は猫である」の苦沙弥先生のモデルともいわれています。
その関係で「坊ちゃん」を物理学校卒にさせたのです。
ちなみに坊ちゃんは東京理科大学の125周年記念イメージキャラクターにもなっています。
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4.漱石が亡くなる最後に口にしたものは?
葡萄酒です。
漱石は医者のはからいで与えられた一匙の葡萄酒を口に含んで「うまい」と言って亡くなったそうです。
ところで「ビスケット」はロンドン留学時代、昼食代わりに食べていた大好物です。
「アイスクリーム」も好きで、義弟鈴木禎次から家庭用アイスクリーム器をもらい、子供の多い夏目家では大いに重宝したそうです。
即ち、漱石はかなりの甘党だったのですね。


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ということで本日のランチは漱石のながれで早稲田です。
最初は早稲田の“ラーメン二郎”こと“メルシー”さんに伺ったところ休日でした
仕方なく、私と次男の動物的な嗅覚で見つけた本日のお店は「ホドリ」さんです。
美味しいのでしょうか・・・

住所: 東京都新宿区馬場下町61
電話:03-3203-8084
定休日:なし

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お店の外観です。

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店内の雰囲気です。
斜め前の席は、トレパン姿の女性二人連れなどがいて店内はかなりくだけた感じです。
右隣のカップルの席は昼間だというのにビールをグイグイと飲(や)りながら楽しそうに食べています。
いかにも早稲田ですね。

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メニューです。

今日のオーダー「まつりランチ(250g)」@840円です。

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まずはサラダの到着です。
これは見た目通りのサラダですので、特筆するものはありません。

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待つこと5分で「まつりランチ(250g)」の到着です。
これってtoo much than I thoughtじゃないですか(笑)
気持ち300gはありそうな感じです。

肉はカルビらしくサシが細かく走った赤身肉です。
それでは実食です。
柔らかいですね。さらにすごく美味しいのです。
この肉のperformanceはすごいですよ。
食べながら冷静に考えてみたら、この肉の柔らからするとこの肉はカルビではなくサガリ(ハラミ)でしょう、違うかなぁ・・・
ご飯が少し硬めなのが気になりますが、そのような事はno problemです。
久々に美味しい肉を頂きました。
早稲田でしっかりとしたものが食べたかったらこのお店でしょう、自信ありです

それでは(^_-)

銀座 上海湯包小館 銀座3丁目店

今日は「八重の桜異聞」の話です。
八重の桜
今年のNHK大河ドラマ『八重の桜』の主人公は新島八重。2012年は平清盛、2011年は徳川秀忠の正室・江、2010年は坂本龍馬を扱うなど、よく知られた歴史上の人物を取り上げる大河ドラマのなかで、新島八重はかなりマイナーな人物です。綾瀬はるかさんが演じ、大河ドラマでは“幕末のジャンヌ・ダルク”“ハンサムウーマン”などとキャッチコピーがつく新島八重は、いったいどんな女性だったのでしょうか?
※()内は『八重の桜』のキャスト名。画像はNHK大河ドラマ『八重の桜』より引用

1.13歳で60キロの米俵を4回も肩の高さまで持ち上げる
新島八重は1845年生まれ。ペリーが浦賀に来航する9年前、激動の幕末時代がはじまる頃に会津藩の砲術師範の家に生まれました。女の子として裁縫や機織りを習う一方で、薙刀や剣術を学び、父(松重豊)からは砲術の手ほどきを受けたと言われています。
今に残る写真からもふくよかな容姿が伝えられますが、少女の頃からまるまると太り、男の子の真似ごとが好きだった八重は、13歳のときに米4斗(約60kg)の俵を軽々と4回も肩の高さまで上げ下げしたそうです。今の世に生まれていたなら、重量挙げの選手にスカウトされそうですね。

2.最新式の銃で45メートル先の的を撃ち抜く
兄・山本覚馬(西島英俊)が江戸から最新式の銃(オランダ製のゲベール銃、ヤゲール銃)を持ち帰ると、その扱いを学んで約45メートル先の的を撃ち抜いていたそうです。銃の重さは約12kg。持つだけでもよろめきそうな重さの銃です。撃ち方のみならず、銃のしくみに関する知識も身につけた八重は、隣の家の男の子に銃の撃ち方を指導するまでになります。
武家の娘とはいえ女だてらに銃を撃つ八重は、男勝りという言葉がぴったりの少女だったに違いありません。
 

3.男装して会津戦争で大砲を撃つ! 日本初の“女性砲術士”
明治元年、鳥羽伏見の戦いに幕府軍が敗れると、藩主・松平容保が京都守護職を務めた会津藩は新政府軍から朝敵とされ、薩摩藩、長州藩などから攻撃を受けることになります。飯盛山で悲劇的な最後を遂げた白虎隊で知られる会津戦争のはじまりです。
このとき、約1か月に渡る若松城(鶴ヶ城)での籠城戦には、約500名の女性も参加していました。このとき八重は24歳。亡き弟・三郎(工藤阿須加)の装束を身につけて男装し、大小の刀を身につけて七連発のスペンサー銃を手にし、身体には100発の銃弾を巻きつけていたそうです。
籠城した女性のなかで最初に断髪したのも八重でした。昼間は兵士のために食事の用意や負傷した人の看護に励み、夜は刀を差して銃を携え夜襲にも参加。銃を持って戦ったのは八重だけだったと言われています。最初の夫・川崎尚之助(長谷川博己)とともに大砲を操作しさえしました。

4.日本初の公立女学校で教鞭を取る
会津戦争から3年後、明治4年の夏に八重は京都へ移ります。死んだと思っていた兄・覚馬の生存が確認され、さらには京都で活躍していることがわかったからです。翌年、京都に日本初の公立女学校・女紅場(じょこうば)が開かれると、八重はここで英語を学ぶとともに教師として教えることになります。
当時、キリスト教に傾倒していた覚馬は、アメリカで洗礼を受けてアーモスト大学やアンド―バー神学校に学んで帰国した新島襄(オダギリジョー)に出会い、ともに同志社英学校の開設に奔走。八重もまた当時の京都府知事から紹介されて新島と出会います。西洋の文化になじみ「亭主が東を向けと命令すれば、三年でも東を向いている東洋風の婦人はご免です」という新島と、男勝りで自分の意見をハッキリと持つ八重はお似合いのカップルでした。
 

5.京都で初めて受洗し、キリスト教式の結婚式を挙げる
八重は、京都で初めてプロテスタントの洗礼を受けたのち、キリスト教式の結婚式をあげて新島と夫婦になります。ふたりは、京都でキリスト教式の結婚式で結ばれた最初のカップル。式の後は、ふたりで同じ人力車に相乗りして人々を驚かせます。男女が同じ人力車に乗るなんてあり得ない時代だったのです。
“キリシタン禁制”が解かれてまだ三年、仏教界が強い力を持つ京都でのキリスト教洗礼、結婚式は、白眼視されたことでしょう。周囲がどう思おうとも自らの意志に従って突き進む八重の覚悟は、やはり会津戦争での籠城戦のなかを死をも恐れず戦った経験に裏打ちされていたのではないでしょうか。
 

6.京都で初めての洋装、しかも絶妙な和洋折衷に周囲は仰天
八重は京都で初めて洋装した花嫁でもありました。しかも、新婚の頃の写真では、着物に革靴を履き、膝のうえには花をつけたつばの広い帽子を載せています。なんという絶妙な和洋折衷! 矢絣の着物に袴をつけてブーツを履いた女学生が現れるのは、数十年後の大正時代のことですから、八重のファッションは時代を数歩先行くものだったと言えるのではないでしょうか?
 

7.自車に乗り、“洋式トイレ”のある家で暮らす新婚生活
結婚後は、当時はまだ珍しかった自転車に乗って京都を駆け回って評判になりました。八重は日本で初めて自転車に乗った女性だったのではないか、とも言われています。和洋折衷だったのは服装だけではありません。新島とともに暮らした家には、畳の部屋は作らず、寝室はふとんではなくベッドを使用。トイレも板張りの“洋式”なら、台所も土間ではなく板を張ったうえ井戸を取り込んでいました。洋館ながらも、窓の上部には和風の欄間を取り入れるなど、和と洋を調和させたスタイルは明治初期の建築としても見ごたえがあります。今でも見学可能(要予約)。

8.“愛夫”とラブラブ!「僕はそんな八重さんが大好きです」
和服に帽子や革靴を合わせたり、自転車に乗って人々を驚かせていた八重ですが、結婚後は夫・新島を“愛夫”と呼んでいたと伝えられています。「愛」という言葉がまだ新しく、また妻は夫の後ろにつき従うのが当然だった時代に、新島を“愛夫”と呼んで肩を並べて歩く八重は、「悪妻」と非難されることもありました。新島は西洋風にレディーファーストで八重を扱ったので、八重の態度はより一層横柄なものに見えたのでしょう。
しかし、新島は「気にすることはありません。僕はそんな八重さんが大好きです」と励まし、八重もまたそのスタイルを変えませんでした。ふたりはたいへん仲睦まじく、同志として共に歩んだカップルだったのです。
新島はこう書いています。「彼女は決して美人ではありませんが、やることが非常にハンサムです」。ここでの「ハンサム」は「美しい行いをする」という意味。今回の大河ドラマでも使われている「ハンサム・ウーマン」という言葉は、このエピソードに由来しています。
 

9.夫の死後は看護婦学校で教え、看護婦育成につとめる
新島と八重の幸せな結婚生活は14年間しか続きませんでした。同志社大学設立のために病身に鞭打ち続けた新島は、48歳という若さでこの世を去ってしまったのです。2年後には、愛する兄・覚馬をも相次いで亡くしています。
しかし、気落ちして立ち止まるような八重ではありません。会津戦争で負傷者の世話をした経験から看護の仕事に関心を持ち、夫の死後3か月後に日本赤十字社の社員になって、やがては看護婦の育成に関わることになります。
明治20年、同支社が京都看護婦学校を設立すると、八重は助教師として教鞭をとります。明治27年の日清戦争時には、20数名の看護婦を率いて広島陸軍予備病院で篤志看護婦として傷病者の看護にあたります。さらに10年後の日露戦争時にも、大阪の陸軍予備病院で篤志看護婦として活躍します。そのとき、八重はすでに60歳でした。
 

10.女であることにこだわらず、勇敢に快活に生き抜いた87年
八重は、夫の死後42年の間、看護婦の育成に務め、茶の湯を楽しみ、同志社の学生たちに「お母さん」「おばあさん」と慕われたと言われています。同志社大学栄光館で行われた葬儀には2000人もの人が参列しました。

この記事のなかにも「日本初」「京都初」という言葉がたびたび登場しましたが、八重は「女だから」「誰もやっていないから」という理由で、何かを思いとどまることはなかったと思われます。同志社での学生時代、八重を嫌って強く批判した徳富蘇峰は、やがて八重を認めて、その死の折にはこんな追悼の言葉を送っています。
「刀自(※)の存在は、新島先生の好配であった為ばかりではなかった。刀自は一個の女性としても日本女性の誇りとするに足る一人であった」
※年配の女性を敬愛の気持ちをこめて呼ぶ呼び方。ここでは八重のこと。

さて、まだ大河ドラマでは八重の子ども時代。八重の激動の人生はこれからです! どんなふうに新島八重が描かれ、演じられるのか楽しみです!
「ガジェット通信」より転載
 
「八重の桜」の舞台は男尊女卑の考え方が主流の幕末から明治初期にかけての頃です。
女は夫を立て、家庭を守ることが当たり前という時代であるなか、銃をもって戦いに出向いたり、日露戦争や日清戦争では看護師として同行したりとアクティブすぎる女性・新島八重の生涯を描いた物語です。
彼女はそのエネルギッシュさや看護への従事ぶりから、幕末のジャンヌ・ダルク、日本のナイチンゲールとも呼ばれているのだそうです。
夫を呼び捨てにし、先に車に乗るなど、世間からは夫をたてない悪妻だと言われていた新島八重。

アメリカ帰りの夫・新島襄(じょう)がレディーファーストであったため、それを見た世間の印象から悪妻と広まってしまっただけで、夫・襄はとても愛妻家で夫婦円満だったのだそうです。

新島八重は悪妻ですか。
私は奥様が、綾瀬はるかさんであれば悪妻でもかまいません、ハイ。

悪妻といえば夏目漱石の奥様です。
夏目漱石の奥様の鏡子は、hyperお嬢様育ちです。
その為に家事は不得意ですし、寝坊することや、漱石に朝食を出さぬままに出勤させることもしばしばで、漱石がこのことを、「お前のやっていることは、不経済極まりない」と叱ると、逆に、「眠いのを我慢していやいや家事をするよりも、多目に睡眠をとって、良い心持で家事をするほうが、何倍も経済的なのではありませんか?」と言い返して、漱石を閉口させることもしばしばだったそうです。

鏡子は、慣れぬ結婚生活からヒステリー症状を起こすこともままあり、これが漱石を悩ませ、漱石を神経症に追い込んだ一因とされています。
ただ、夫婦仲はそれほど悪くはなかったようです。漱石が英国留学後に、神経症を悪化させ、鏡子や子供達に対して頻繁に暴力を振るうようになり、周囲から漱石との離婚を暗に勧められた時には、「(漱石が)私の事が嫌で暴力を振るって離婚するというのなら離婚しますけど、今のあの人は病気だから私達に暴力を振るうのです。病気なら治る甲斐もあるのですから、別れるつもりはありません」と、言って頑として受け入れなかったといいます。

漱石の死後、鏡子が子供達の前で失言し、それを子供達にからかわれると、「お前達はそう言って、私のことを馬鹿にするけれど、お父様(漱石)が生きておられた時は、優しく私の間違いを直してくれたものだ」と、亡夫・漱石を懐かしむことがしばしばだったそうです。

八重も鏡子もともに身体は豊満です。
悪妻=豊満というイメージが日本?世界?では定着しています。
何故でしょうか・・・
ご主人を朝昼なく働かせてその稼ぎを搾取する。その搾取したお金で美食三昧、そして家事労働はご主人にやらせるのでカロリー消費はほとんどなく、その結果ぶくぶくと太るという構図なのでしょうね。
面白いもので、なぜか悪妻とダメ夫の夫婦の離婚ってあまりきいたことがありません。
夏目漱石夫婦のようになにか言い知れぬ補完関係が構築されているのでしょう。
男女の中はmysteryです。


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今日は銀座に出没です。
春寒ですか、というかマジ寒です。
奥様からの指令で東京交通会館にある「千葉スペシャル」さんで靴磨きです。
常日頃から奥様同様私もオシャレの基本は足元からと考えています。
従いまして@1,000円/回の靴磨きの投資は必要経費です。
「千葉スペシャル」さん、TV露出の影響か女性の靴磨き客が増えています。
仲良しのオジサンに聞いたら、ここ数カ月で女性が増えてきて、今では一日2〜3名はくるかね、との事でした。
女性って靴磨きはご自身でするものではなかったのでしょうか・・・
そんなことよりランチです。
今日のお店は「上海湯包小館」銀座3丁目さんです。

住所: 東京都中央区銀座3-7-16 銀座NSビル 1F・2F
電話:03-5524-2608
定休日:無休

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お店の外観です。

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メニューです。

今日のオーダー「黄金海老炒飯セット」@880円です。
なんですかこのお店禁煙席に26名のお客がいましたが男性客は3名です。
喫煙席の6名のお客は女性です。男性率9%、アマゾネスですか(笑)

閑話休題おはなしはもどりまして
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待つこと5分で小籠包3個が運ばれてきました。
きざみ生姜に黒酢と醬油をかけていただきます。皮が柔らかく、箸でもっただけで中に肉汁がたまっているのが分かります。
それでは実食です。
すごいですよ、熱々の旨味の肉汁。
これはとてもイケますね。
美味し〜い!

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遅れて1分後に黄金海老炒飯、溶き卵スープが着膳です。

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見た目美炒飯です。
それでは実食です。
美味しいbut・・・
いわゆる優等生的炒飯です。
男性には量・味付け含めて物足りないでしょう。
ウン、これ女性tasteですね。

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白眉は溶き卵スープです。
トロミ、塩加減、熱さ、gutです。
私見ですが、ここのchefさんのde factoとってこの味付けではないのでしょうか。
銀座、飲茶、となれば女性となりますので、意図的に女性を意識した味付けにしているのではないかと演繹する今日この頃であります。

それでは(^_-)
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