下町っ子の上の空

好奇心が人一倍強く、見栄っ張りで、お人好しの下町っ子のBlogです。 ウンチクネタがくどいのがたまに傷ですが、お気軽にお立ち寄り下さい。

坂本竜馬

続 味芳斉 支店 4th

今日は「龍馬伝」の話です
味芳斉41
鈴木圭「龍馬伝」チーフプロデューサー談
「資料を読み込んでいくなかで、岩崎弥太郎という人物がでてきました。弥太郎から見た龍馬というアプローチをすることで、新しい龍馬像が描けるのではないか。いけるという手応えがありました。龍馬と弥太郎、それは「アマデウス」に出てくる天才モーツアルトと、そこそこの天才のサリエリの関係に似ている。サリエリはモールアルトに追いつけない。でもモーツアルトの才能を一番良く知っているのがサリエリです。岩崎弥太郎も“土佐の天才児”ではあったけれど、龍馬は常に一歩先を進み、弥太郎は置いていかれる。そんな弥太郎から龍馬を見ることで等身大の龍馬像が描いていけるんじゃないか」
【龍馬伝 東京ニュース通信社】より転載
なるほど龍馬伝キャストを見ると、ダブルキャストなのかなと思ったのですが、岩崎弥太郎のスコープを通して龍馬を表すのですか…楽しみですね!
ちなみに私の嫌いなキャストは以下の通りです。
勝海舟→武田鉄矢…博多出身者が流暢な江戸弁を喋れるのか
乙女→寺島しのぶ…乙女は大女です
おりょう→真木よう子…派手すぎる
三吉慎蔵→未定…何故だ!

※宜しかったら私の真説龍馬暗殺犯をご覧ください。

味芳斉42
今日は天皇誕生日だというのに一日お仕事です。今日の20時に行われる、東京タワー51歳の誕生日!「THANKS 51th! TokyoTower Birthday & X’mas LIVE」Eventの一つである東京タワーのイルミネーションチエンジを奥様が見たいというので大門で待合せしました…実はいわれるほどのサプライズではなかったのですネ、これは奥様には内緒です

何をたべるかと悩んだのですが、悩んだ時はHotなものをということで、今日は「味芳斉」支店です。

住所: 東京都港区芝大門1-10-1芝パークホテル前
電話:03-3433-1095
定休日:不明

味芳斉43
お店の外観です。

味芳斉44
店内の雰囲気です。

味芳斉45
小籠包子@1,000。これはイケます、包子から飛び出てくる肉汁ががタマリマセン、膨(ふく)よかな味です。

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牛肉飯+スープ@1,000、味ですか、アレレ美味しくないじゃないですか、牛肉が硬いです、いつもはトローリしているのに、味付けも少し変ですね…

味芳斉48
炒肝子@1,100。これは安定した味です、野菜とガツとのラー油の合わせ技は納得の味です、結構でした。

それでは(^_-)

続 新富鮨 4th

今日は「坂本竜馬」評です
勝海舟「彼はおれを殺しにきた奴だが、なかなか人物さ。その時、おれは笑って受けたが、沈着(おちつ)いて、何となく冒(おか)しがたい権威があってよい男だったよ」
西郷隆盛「天下に有志あり、余多く之と交(まじ)わる。然(しか)れども度量の大、竜馬に如くもの、未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」
寺田屋でともに襲撃された三吉慎蔵「過激なることは豪(えら)も無し。かつ声高に事を論じるような事も無く、至極おとなしき人なり。容貌を一見すれば、豪気に見受けられるも、万事温和に事を処する人なり。但し胆力が極めて大なり」
妻のおりょう「それはそれは妙な男でして、まるで人さんとは一風違っていたのです。少しでも間違ったことは、どこまでも本(もと)を糺(ただ)さねば承知せず、はっきりと謝りさえすれば、すぐに許してくれました。その後は、よくよくせねばならぬぞとていねいに教えてくれました。」
新富寿司41
ちなみにおりょうは、龍馬暗殺後、三吉慎蔵に保護され、土佐の坂本家へ送られました。しかし奔放な性格や素行の悪さから居づらくなり、その後各地を放浪。やがて妹を頼って横須賀へ流れつき、旧知の商人・西村松兵衛と再婚しました。
新聞記者や文筆家のインタビューを受けたのは、横須賀に住んでいた時代ですが、そのころのおりょうは、酒びたりでアルコール依存状態となっており、荒れた日々を送っていたといいます。
また龍馬の生前の仕事や業績について何もしらず、明治政府から知らされて、はじめて自分の夫の偉大さを知ったといいます。
「あなたの知らない坂本龍馬の謎」歴史の謎を探る会[編]
三吉慎蔵さんの龍馬評が個人的にはそぐっています。そうだよなあまり毀誉褒貶の激しい竜馬ってイメージに合いませんものね…個人的に納得

久々に地雷を踏み抜いてしまいました酔った勢いで何やらしでかしたようで顔中血だらで帰宅したものですから、すごく奥様に怒られました。当然のことながらヒドイ二日酔いで一日がすぎるのがとても遅く感じられたのです。
私はたまに飲みすぎてしまうことがあります、その度反省するのですが、忘れた頃必ず何かをやらかすのです(阿保)

今日は飲み仲間の山チャンがやっている「新富鮨」さんです。

住所: 東京都中央区月島3-7-10
電話:03-3533-0755
定休日:土曜日

新富寿司42
お店の外観です。

新富寿司43
店内の雰囲気です。

新富寿司44

新富寿司45
今日のオーダー「ちらし寿司」@700です。
私はここの「ちらし寿司」大大大好きです。盛り付けは綺麗ですし、味も最高ですし、値段も安いしというくらい申し分がありません。
ちなみにこの間、山チャン飲み屋で若いお兄ちゃんに、独り身は良くないぞ!早く身を固めなきゃダメだよ、って説教していましたが、自分はどうなんですか、とその時返したかったのですができなく、今日お店でその旨を話したら、そうだよね〜、人のこといえないよね〜ですと。人柄が出ていますね(笑)

それでは(^_-)

秋葉原 威風

今日は坂本竜馬暗殺犯です
昨日 の続きで私の見廻組犯人説を裏付ける文献がでてきましたので、以下に記します。

威風1

【前略】
明治3年(1870)になって自供者があらわれる。函館戦争で敗れた旧幕府軍に、元見廻組の今井信郎(いまいのぶお)という人物がいた。彼が兵部省と刑部省の尋問にたいし、龍馬暗殺を自供したのだ。
彼の証言によれば、龍馬を倒したのは、彼の属している京都見廻組である。見廻組は、京都で発足した幕府の治安維持機関だった。幕府は、すでに治安維持機関として京都に新選組を送り込み、その実績を評価していたが、内ゲバ(粛清)の多さや行動に一抹の不安を覚え、新たに新選組よりも規律のある組織として見廻組を設けたと考えられる。
【中略】
見廻組による龍馬暗殺は、京都の治安を預かる彼らにすれば、職務を忠実に実行したまでのことである。龍馬は、前年(慶応二年)の寺田屋事件の際、伏見奉行所の捕り方の一人をピストルで射殺、逃走している。現代でいえば指名手配中の危険人物だった。
見廻組の使命は、龍馬の捕縛にあったが、ピストルを所持している龍馬の捕縛を目指すのは、リスクが高いと考え、隙をついての殺害に切り替えたのである。彼らは、重要人物の暗殺とは考えず、危険人物の排除と考えていたことだろう。
このころ、大政奉還が成ったこともあって、その発案者・龍馬の罪を免じようという指令が幕府から出ていたといわれている。その指令が見廻組には浸透せず、龍馬は斃(たお)されることになったのだ。
「あなたの知らない坂本龍馬の謎」歴史の謎を探る会[編]より転載

如何でしょうか

これが事故記録です。
時:慶応3年11月15日午後9時頃
所:京都河原町蛸薬師下ル西側・醤油商近江屋新助宅二階
被害者:坂本竜馬(海援隊隊長)33歳ほとんど即死。全額部(致命傷)、左肩先から左背骨、さらに全額部に傷喉に2箇所の突き傷(トドメ)があったという資料もある。)
中岡慎太郎(陸援隊隊長)30歳
2日後死亡。後頭部、肩、胴、背、股等12箇所に傷
(頭を3度ほど突き刺されていたという資料もある。)
藤吉(下僕) 死亡。背等に6箇所の傷
現場における刺客の遺留品
ろう色の刀の鞘
先斗町の瓢亭という料理屋の下駄の片方
目撃者の証言:
藤吉「犯人は十津川郷某と名乗り、名刺を出した。」
中岡慎太郎「刺客が斬り込んだ時、『こなくそっ』といった。」
「刺客はトドメを刺さず、『もうよい、もうよい』といった。」
「入ってきた刺客は、2人だった。」


Blog書いていて初めてきがついたのですが、竜馬って生まれた日は天保6年(1835)11月15日で、暗殺された日が慶応3年(1867)11月15日ですから、誕生日に亡くなったのですね、こらこら見廻組、誕生日プレゼントの意味合いちがうだろうが…
ところで今井信郎さんは、実行犯ではなく単なる階下の見張り役と当初供述していたのですが、死去する前に実は実行犯でしたと前言を翻したものですから、物議を醸したのです。
これは真実なのか、売名行為だったのかは当人のみぞ知るところです。

スタンド8
【称名寺】
仮に竜馬と慎太郎がFirst Attackをかわして階下に逃げたら、幕末最強の剣豪佐々木只三郎(清川八郎暗殺者)が待ち受けていたので虎口を抜けることができたかどうかわかりません。
折角、近江屋の主人新助さんが竜馬の身に迫る危険を感じており、裏の土蔵の二階に密室を作り、万一の時は梯子を降りて裏の称名寺へ逃げられる様準備をしてくれていたのに、そこにいたらよかったのです。
暗殺される二三日前には北辰一刀流の同窓の御陵衛士伊藤甲子太郎・藤堂平助さんが、身辺警護のセキュリティレベルを上げる様忠告しにきてくれたのに、しかしその頃の龍馬は腹風邪のため下痢がひどく、厠の遠い土蔵から、河原町通に面する母屋二階に移ってしまったのですね。そうか竜馬さん、下痢だけに運を落としてしまったのですね、タマルカですね(悲)
「腹風邪」の件(くだり)「片瀬五郎の京都から」さんより転載

今日のお店は秋葉原のサラリーマン御用達ラーメン店「威風(いふう)」さんです。

住所: 東京都千代田区神田佐久間町1-20
電話:03-3253-6751
定休日:無休

威風2
お店の外観です。

威風3
店内の雰囲気です。店主が韓国の方のせいか、お店のStaffの方々も韓国の方で固めています、よって所謂気合系マントラ(e.g.ありがとうございま〜す、注文いただきましたetc)が店内に高らかに響きわたります、韓国の方は基本的に体育会系ノリ!

威風4
今日のオーダーは「香味カレーラーメンラーメン」@720です。

威風5

威風6
本音を言えば、カレーラーメンにポテトチップス?合うの、合わないのと悩んだのですが、基本的に迷った時は、Go aheadです。味ですか、カレーにポテトチップスは合います、そばもんじゃをイメーしてもらえばOkです。スープも熱々で申し分ないです、そしてカプシンサンのお国、辛さも脳にビンビンきます。ガーリックチップもスープを吸ってふやけると味が倍増します。さらにライスは無料です。すご〜く美味しいという訳ではないのですが、私には合ってます。
チャル モゴッスムニダ(ご馳走さまでした)

それでは(^_-)

上青木 十和田

今日は私の「坂本竜馬」評です
高知では30年位前まで、土佐の生んだ英雄といえば「板垣退助」で「坂本竜馬」は知る人ぞ知るといった存在だったそうです、
それが司馬遼太郎先生の小説「竜馬がゆく」でいっきに変わったそうです。「坂本竜馬」は今や「好きな歴史上の人物」でどのアンケートでもBest3に入る人気です。
一つの小説が、日本人の歴史観、英雄感をここまで変えてしまったのです。これは本当にすごいことではないでしょうか。
「夜ふけのなわとび」林真理子著より転載

十和田1
来年NHKで「龍馬伝」が始まります、寅年は「坂本竜馬」一色でしょう。
竜馬フリークの私としてはマジにタマランゼヨです(笑)
私の竜馬評は以下の通りです、以前弊blogに書いたものですので、二度見られる方はお許しください。

竜馬暗殺犯は明治3年2月から9月の間に聴取された、兵部省及び刑部賞省における今井信郎(のぶお)の口書(くちがき)判決によると、下手人は佐々木只三郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂準之助、土肥仲蔵、桜井大三郎、今井信郎の7名というのが公式供述となっています。
下母澤寛先生、大岡昇平先生も同様にこの口書判決を真としています。

また見廻組与頭佐々木只三郎(下手人)の実兄、会津藩士、手代木直右衛門が彦根藩金奉行石黒伝右衛門に宛てた書状が少し前に公表されました。
その書状が書かれた日付は、凶行の翌日の11月16日です。
その内容は「ごく内密に相談したい事件おこった、祇園の一力亭まで出てきてくれないか。その時全て話す」とのことです。
京都でこの前後に起こった大きな事件といえば、竜馬暗殺ぐらいですので、相談の事件といえば実弟が起こした竜馬暗殺の件とみてよいといわれています。

私は司馬遼太郎の「竜馬がゆく」は、100回以上読んでいるので、私は勿論のこと竜馬ファンの過半の方は司馬遼太郎先生が描かれた竜馬象を受け入れていると思います。
しかし実際の竜馬は何の背景を持たない浪人でした。よって海援隊を作り自分の基盤を作ったのです。薩摩藩の「桂久武日記」には、竜馬を雇い商事行為、諜報活動をさせていたという文言が少し前に発見され公表されています。
このことから伺えるのは「竜馬がゆく」に書かれていた様な強い影響力は持ってはいなかったようです。

明治になって元上司の勝海舟が明治三年四月十五日に竜馬遭難時京都にいた大目付(職制上は老中に属し、大名・高家および朝廷を監視してこれらの謀反から幕府を守る監察官の役割を持った江戸時代の役職)松平勘太郎に今井信郎(下手人)の自供の内容を聞きに行っています。
それによると当時の幕府の警察部署の部長級の人間が寺田屋事件で竜馬に射殺された部下の復讐を図って、竜馬の殺害を指示したということでした。
今井自身も直接その部長級の指示を受けたわけではなく、この経緯は定かではありません。しかし最高責任者であった大目付松平勘太郎の耳には、この指示そのものも入ってなかったというのが真相の様です。
よって政治的背景は無かったといえます。

たしかに薩長同盟は竜馬の功績ですが、締結を果たした後にはお役御免となりました。
暗殺に遡ること10月14日、大政奉還がなされたその日に、奇しくも薩長に倒幕の密勅がおりており時代の趨勢は決まったのです。
よって薩長も幕府も無戦論者の竜馬を殺す理由は存在しえなかったのです。
維新のムーブメントは何人(なんびと)も、もはや止めることはできなかったのです。
その証左に西郷隆盛は無戦論者の竜馬暗殺の有る無しに係わらず、その暗殺の二日前には倒幕軍となる大兵を率い上京(京都)の途に着いています。
今みたいにネット情報も無い中で、竜馬が行った高度な政治活動が下々に周知される分けもなく、単に惨殺されたというのが冷静な歴史の見方かもしれませんね。
よって今井信郎も政治犯を殺したという感慨もなかったと考えられます。

参考文献:浅田次郎著「新選組読本」、「壬生義士伝」、司馬遼太郎著「竜馬がゆく」、「新選組読本」、子母澤寛著「新選組始末記」、「新選組遺文」「新選組物語」他


十和田2
今日はグループ会社の忘年懇親会があり、部下の女性3人を引き連れて参加しました。
タダというので意地汚く飲んだものですから、秒殺で酔っ払って天国に行ってしまいました(笑)
今日のお店はキューポラの町「川口」の定食屋「十和田」さんです。

住所: 埼玉県川口市上青木1-5-10
電話:048-256-3355
定休日:不明

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お店の外観です。

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店内の雰囲気です。

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店内メニューです。

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今日のお店の「十和田」さんは、工場街にある昔からの定食屋さんです。親子二人で膨大なメニューの品々を作り廻しています。
お店のお奨めは「天麩羅」だそうですが、今日は何故か肉が食べたかったので、今日のオーダーは「焼肉定食」@750です。味ですか、見てくださいこの肉のテリ、不味かろうわけがありません。イケました、美味しゅうございました、結構でした合格合格合格

それでは(^_-)

月島 健楽 3rd

今日は「Is this guy Mr.Takamori Saigo?」の話です
健楽31

健楽32
一葉の写真が伝わっています。慶応元年2月中旬から3月18日までの間に、長崎へ集結をかけられた各藩の勤皇党は、西郷南洲翁及び勝海舟と共に、世界の情勢に明るい、オランダ人宣教師フルベッキ博士を訪問しました。
大隈重信・副島種臣ら門下生と共に、日本の統一をどうしたら良いか、王政復古は、どうなってゆくのかをフルベッキ博士を交え相互して議論し合ったそうです。
この写真は、写真術の祖、長崎大村出身の写真家、上野彦馬の写真スタディオでフルベッキ博士の子どもも交え、和やかな雰囲気で記念撮影されたものです。
明治28年に、この写真は、宗教家で歴史家でもある戸川残花が「太陽」に掲載しましたが、政界の一部の圧迫を受け、やむなく佐賀藩の学生達として紹介されました。
このため現在まで分からなかったのです。また、この写真は、宗教記録として、フルベッキ博士が所持し、絶対に手放さなかったものを、戸川残花の強い要望により借り受けたものなのだそうです。
【中略】
1899年、上野公園の銅像除幕式に列席した西郷隆盛の未亡人イトが亡夫の銅像を見た瞬間、「宿んしは、こげなお人じゃなかったこて」(うちの人は、このような人ではなかったのに」)と思わず声を出すと、隣席に腰かけていた西郷縦道がイトの足を踏んでたしなめたというエピソードが噂となって全国に広まり、それが元になって銅像の西郷隆盛の顔は本物と似ていないと信じる人が増えたということを物の本で読んだことがありますが、このイト未亡人の言葉は「銅像の顔が記憶に残る亡夫の顔と似ていない」ことを意味するのではなく、「銅像のように、西郷が着物姿で人前に現れるはずがない」という意味であったと、新人物往来社編集の『西郷隆盛 七つの謎』に書いてありました。
「教育の源典を考える」及び「www3.ocn.ne.jp/~sigikain/meijisyasin.html」より転載

西郷隆盛は写真嫌いだった為、生前一葉の写真もないというのが歴史上の定説でした。しかし私の前に唐突に出現したのがこの写真(西郷隆盛は後列真ん中の13番)です。
この写真を始めて見たのは今から7年前初めて寺田屋を訪れた時です、何故か寺田屋の一階に貼ってありました。しかし其の真贋はすぐ分りました。これはFakeです、答えは簡単ですね、明治天皇が写っていることと、勝海舟の顔が全く違いうことです。しかし坂本竜馬は似ています、それと西郷隆盛はこのような顔だと思いたいのです・・・いずれにしても貴重な画像であることは間違いありません!

今日は久々に月島に出没です。日曜日の月島のランチといえば「一心」か「健楽」でしょう、悩みに悩んで結局コッテリしたものを食べたいということで「健楽」になりました。
久々に訪れた健楽は、息子さんが茶髪から黒髪の短髪に変わっていました。もうキャバクラ遊びは止めたのでしょうか(笑)

住所: 中央区月島3−7−8
電話:非公開
定休日:木曜日

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お店の外観です。

健楽34
店内の雰囲気です。

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メニューです。

健楽36
今日のオーダーは私の好物の一つ「カレーラーメンラーメン」@800です。

健楽37
このラーメン野菜がコンモリです、白菜、キャベツ、ニラ、モヤシ、人参が大挙して入っています。豚肉も負けずにシッカリと投入されています。特筆なのは、単なるカレーパウダーのみでなく、なにやら丸秘の隠し調味料が入っているとか?
味ですか、美味しいですね!カレーの辛さが頭にビンビンきます、これでしょうカレーラーメンの楽しみ方は、私の脳細胞をガツッリと充分にマッサージしてくれました。
麺はストート中太麺ですが、このスープには合います。
とても美味しゅうございました、ご馳走様でした

それでは(^_-)

竜馬暗殺異聞

今日は大好きな坂本竜馬の話です。
よってグルメネタではありませんが、最後まで読んでいただけるとアリガタイですm(__)m

竜馬の身長が180cmではなく168cmだったという話は以前ブログで書いたとおりですが、この人は現在も何かと喧(かまびす)しい限りです。

竜馬暗殺犯は明治3年2月から9月の間に聴取された、兵部省及び刑部賞省における今井信郎(のぶお)の口書(くちがき)判決によると、下手人は佐々木只三郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂準之助、土肥仲蔵、桜井大三郎、今井信郎の7名というのが公式供述となっています。
下母澤寛先生、大岡昇平先生も同様にこの口書判決を真としています。

また見廻組与頭佐々木只三郎(下手人)の実兄、会津藩士、手代木直右衛門が彦根藩金奉行石黒伝右衛門に宛てた書状が少し前に公表されました。
その書状が書かれた日付は、凶行の翌日の11月16日です。
その内容は「ごく内密に相談したい事件おこった、祇園の一力亭まで出てきてくれないか。その時全て話す。」とのことです。
京都でこの前後に起こった大きな事件といえば、竜馬暗殺ぐらいですので、相談の事件といえば実弟が起こした竜馬暗殺の件とみてよいといわれています。

私は司馬遼太郎の「竜馬がゆく」は、100回以上読んでいるので、私は勿論のこと竜馬ファンの過半の方は司馬遼太郎先生が描かれた竜馬象を受け入れていると思います。
しかし実際の竜馬は何の背景を持たない浪人でした。よって海援隊を作り自分の基盤を作ったのです。薩摩藩の「桂久武日記」にも、竜馬を雇い商事行為、諜報活動をさせていたという文言が少し前に発見され公表されています。
よって「竜馬がゆく」に書かれていた様な強い影響力は持ってはいなかったようです。

明治になって元上司の勝海舟が明治三年四月十五日に竜馬遭難時京都にいた大目付(職制上は老中に属し、大名・高家および朝廷を監視してこれらの謀反から幕府を守る監察官の役割を持った江戸時代の役職)松平勘太郎に今井信郎(下手人)の自供の内容を聞きに行っています。
それによると当時の幕府の警察部署の部長級の人間が寺田屋事件で竜馬に射殺された部下の復讐を図って、竜馬の殺害を指示したということでした。
今井自身も直接その部長級の指示を受けたわけではなく、この経緯は定かではありません。しかし最高責任者であった大目付松平勘太郎の耳には、この指示そのものも入ってなかったというのが真相の様です。
よって政治的背景は無かったといえます。

たしかに薩長同盟は竜馬の功績ですが、締結を果たした後にはお役御免となりました。
暗殺に遡ること10月14日、大政奉還がなされたその日に、奇しくも薩長に倒幕の密勅がおりており時代の趨勢は決まったのです。
よって薩長も幕府も無戦論者の竜馬を殺す理由は存在しえなかったのです。
維新のムーブメントは何人(なんびと)も、もはや止めることはできなかったのです。
その証左に西郷隆盛は竜馬暗殺の有る無しに係わらず、その暗殺の二日前には倒幕軍となる大兵を率い上京(京都)の途に着いています。
今みたいにネット情報も無い中で、竜馬が行った高度な政治活動が下々に周知される分けもなく、単に惨殺されたというのが冷静な歴史の見方かもしれませんね。
よって今井信郎も政治犯を殺したという感慨もなかったと考えられます。

一方竜馬の寓居先、近江屋の主人新助は竜馬の身に迫る危険を感じており、裏の土蔵に密室を作り、万一の時は梯子を降りて裏の称名寺へ逃げられる様準備をしていました。

私は大阪単身時代、京都の蛸薬師の称名寺(脱出する予定だったお寺)へ来るたびに、なんで竜馬はここから逃げなかったのだと歯噛んだことが思い起こされます。

参考文献:浅田次郎著「新選組読本」、「壬生義士伝」、司馬遼太郎著「竜馬がゆく」、「新選組読本」、子母澤寛著「新選組始末記」、「新選組遺文」「新選組物語」他

それでは(^_-)
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