下町っ子の上の空

好奇心が人一倍強く、見栄っ張りで、お人好しの下町っ子のBlogです。 ウンチクネタがくどいのがたまに傷ですが、お気軽にお立ち寄り下さい。

今井信郎

秋葉原 威風

今日は坂本竜馬暗殺犯です
昨日 の続きで私の見廻組犯人説を裏付ける文献がでてきましたので、以下に記します。

威風1

【前略】
明治3年(1870)になって自供者があらわれる。函館戦争で敗れた旧幕府軍に、元見廻組の今井信郎(いまいのぶお)という人物がいた。彼が兵部省と刑部省の尋問にたいし、龍馬暗殺を自供したのだ。
彼の証言によれば、龍馬を倒したのは、彼の属している京都見廻組である。見廻組は、京都で発足した幕府の治安維持機関だった。幕府は、すでに治安維持機関として京都に新選組を送り込み、その実績を評価していたが、内ゲバ(粛清)の多さや行動に一抹の不安を覚え、新たに新選組よりも規律のある組織として見廻組を設けたと考えられる。
【中略】
見廻組による龍馬暗殺は、京都の治安を預かる彼らにすれば、職務を忠実に実行したまでのことである。龍馬は、前年(慶応二年)の寺田屋事件の際、伏見奉行所の捕り方の一人をピストルで射殺、逃走している。現代でいえば指名手配中の危険人物だった。
見廻組の使命は、龍馬の捕縛にあったが、ピストルを所持している龍馬の捕縛を目指すのは、リスクが高いと考え、隙をついての殺害に切り替えたのである。彼らは、重要人物の暗殺とは考えず、危険人物の排除と考えていたことだろう。
このころ、大政奉還が成ったこともあって、その発案者・龍馬の罪を免じようという指令が幕府から出ていたといわれている。その指令が見廻組には浸透せず、龍馬は斃(たお)されることになったのだ。
「あなたの知らない坂本龍馬の謎」歴史の謎を探る会[編]より転載

如何でしょうか

これが事故記録です。
時:慶応3年11月15日午後9時頃
所:京都河原町蛸薬師下ル西側・醤油商近江屋新助宅二階
被害者:坂本竜馬(海援隊隊長)33歳ほとんど即死。全額部(致命傷)、左肩先から左背骨、さらに全額部に傷喉に2箇所の突き傷(トドメ)があったという資料もある。)
中岡慎太郎(陸援隊隊長)30歳
2日後死亡。後頭部、肩、胴、背、股等12箇所に傷
(頭を3度ほど突き刺されていたという資料もある。)
藤吉(下僕) 死亡。背等に6箇所の傷
現場における刺客の遺留品
ろう色の刀の鞘
先斗町の瓢亭という料理屋の下駄の片方
目撃者の証言:
藤吉「犯人は十津川郷某と名乗り、名刺を出した。」
中岡慎太郎「刺客が斬り込んだ時、『こなくそっ』といった。」
「刺客はトドメを刺さず、『もうよい、もうよい』といった。」
「入ってきた刺客は、2人だった。」


Blog書いていて初めてきがついたのですが、竜馬って生まれた日は天保6年(1835)11月15日で、暗殺された日が慶応3年(1867)11月15日ですから、誕生日に亡くなったのですね、こらこら見廻組、誕生日プレゼントの意味合いちがうだろうが…
ところで今井信郎さんは、実行犯ではなく単なる階下の見張り役と当初供述していたのですが、死去する前に実は実行犯でしたと前言を翻したものですから、物議を醸したのです。
これは真実なのか、売名行為だったのかは当人のみぞ知るところです。

スタンド8
【称名寺】
仮に竜馬と慎太郎がFirst Attackをかわして階下に逃げたら、幕末最強の剣豪佐々木只三郎(清川八郎暗殺者)が待ち受けていたので虎口を抜けることができたかどうかわかりません。
折角、近江屋の主人新助さんが竜馬の身に迫る危険を感じており、裏の土蔵の二階に密室を作り、万一の時は梯子を降りて裏の称名寺へ逃げられる様準備をしてくれていたのに、そこにいたらよかったのです。
暗殺される二三日前には北辰一刀流の同窓の御陵衛士伊藤甲子太郎・藤堂平助さんが、身辺警護のセキュリティレベルを上げる様忠告しにきてくれたのに、しかしその頃の龍馬は腹風邪のため下痢がひどく、厠の遠い土蔵から、河原町通に面する母屋二階に移ってしまったのですね。そうか竜馬さん、下痢だけに運を落としてしまったのですね、タマルカですね(悲)
「腹風邪」の件(くだり)「片瀬五郎の京都から」さんより転載

今日のお店は秋葉原のサラリーマン御用達ラーメン店「威風(いふう)」さんです。

住所: 東京都千代田区神田佐久間町1-20
電話:03-3253-6751
定休日:無休

威風2
お店の外観です。

威風3
店内の雰囲気です。店主が韓国の方のせいか、お店のStaffの方々も韓国の方で固めています、よって所謂気合系マントラ(e.g.ありがとうございま〜す、注文いただきましたetc)が店内に高らかに響きわたります、韓国の方は基本的に体育会系ノリ!

威風4
今日のオーダーは「香味カレーラーメンラーメン」@720です。

威風5

威風6
本音を言えば、カレーラーメンにポテトチップス?合うの、合わないのと悩んだのですが、基本的に迷った時は、Go aheadです。味ですか、カレーにポテトチップスは合います、そばもんじゃをイメーしてもらえばOkです。スープも熱々で申し分ないです、そしてカプシンサンのお国、辛さも脳にビンビンきます。ガーリックチップもスープを吸ってふやけると味が倍増します。さらにライスは無料です。すご〜く美味しいという訳ではないのですが、私には合ってます。
チャル モゴッスムニダ(ご馳走さまでした)

それでは(^_-)

竜馬暗殺異聞

今日は大好きな坂本竜馬の話です。
よってグルメネタではありませんが、最後まで読んでいただけるとアリガタイですm(__)m

竜馬の身長が180cmではなく168cmだったという話は以前ブログで書いたとおりですが、この人は現在も何かと喧(かまびす)しい限りです。

竜馬暗殺犯は明治3年2月から9月の間に聴取された、兵部省及び刑部賞省における今井信郎(のぶお)の口書(くちがき)判決によると、下手人は佐々木只三郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂準之助、土肥仲蔵、桜井大三郎、今井信郎の7名というのが公式供述となっています。
下母澤寛先生、大岡昇平先生も同様にこの口書判決を真としています。

また見廻組与頭佐々木只三郎(下手人)の実兄、会津藩士、手代木直右衛門が彦根藩金奉行石黒伝右衛門に宛てた書状が少し前に公表されました。
その書状が書かれた日付は、凶行の翌日の11月16日です。
その内容は「ごく内密に相談したい事件おこった、祇園の一力亭まで出てきてくれないか。その時全て話す。」とのことです。
京都でこの前後に起こった大きな事件といえば、竜馬暗殺ぐらいですので、相談の事件といえば実弟が起こした竜馬暗殺の件とみてよいといわれています。

私は司馬遼太郎の「竜馬がゆく」は、100回以上読んでいるので、私は勿論のこと竜馬ファンの過半の方は司馬遼太郎先生が描かれた竜馬象を受け入れていると思います。
しかし実際の竜馬は何の背景を持たない浪人でした。よって海援隊を作り自分の基盤を作ったのです。薩摩藩の「桂久武日記」にも、竜馬を雇い商事行為、諜報活動をさせていたという文言が少し前に発見され公表されています。
よって「竜馬がゆく」に書かれていた様な強い影響力は持ってはいなかったようです。

明治になって元上司の勝海舟が明治三年四月十五日に竜馬遭難時京都にいた大目付(職制上は老中に属し、大名・高家および朝廷を監視してこれらの謀反から幕府を守る監察官の役割を持った江戸時代の役職)松平勘太郎に今井信郎(下手人)の自供の内容を聞きに行っています。
それによると当時の幕府の警察部署の部長級の人間が寺田屋事件で竜馬に射殺された部下の復讐を図って、竜馬の殺害を指示したということでした。
今井自身も直接その部長級の指示を受けたわけではなく、この経緯は定かではありません。しかし最高責任者であった大目付松平勘太郎の耳には、この指示そのものも入ってなかったというのが真相の様です。
よって政治的背景は無かったといえます。

たしかに薩長同盟は竜馬の功績ですが、締結を果たした後にはお役御免となりました。
暗殺に遡ること10月14日、大政奉還がなされたその日に、奇しくも薩長に倒幕の密勅がおりており時代の趨勢は決まったのです。
よって薩長も幕府も無戦論者の竜馬を殺す理由は存在しえなかったのです。
維新のムーブメントは何人(なんびと)も、もはや止めることはできなかったのです。
その証左に西郷隆盛は竜馬暗殺の有る無しに係わらず、その暗殺の二日前には倒幕軍となる大兵を率い上京(京都)の途に着いています。
今みたいにネット情報も無い中で、竜馬が行った高度な政治活動が下々に周知される分けもなく、単に惨殺されたというのが冷静な歴史の見方かもしれませんね。
よって今井信郎も政治犯を殺したという感慨もなかったと考えられます。

一方竜馬の寓居先、近江屋の主人新助は竜馬の身に迫る危険を感じており、裏の土蔵に密室を作り、万一の時は梯子を降りて裏の称名寺へ逃げられる様準備をしていました。

私は大阪単身時代、京都の蛸薬師の称名寺(脱出する予定だったお寺)へ来るたびに、なんで竜馬はここから逃げなかったのだと歯噛んだことが思い起こされます。

参考文献:浅田次郎著「新選組読本」、「壬生義士伝」、司馬遼太郎著「竜馬がゆく」、「新選組読本」、子母澤寛著「新選組始末記」、「新選組遺文」「新選組物語」他

それでは(^_-)
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