今日は「キリストの誕生」の話です。
西暦30年の春、エルサレム城外の岩だらけの丘で、一人の男が処刑された。男は十字架に両手、両足を釘づけにされ、三時間の苦しみの後、息たえた。その死を遠くから見守ったのは彼の母親や何人かの女性たちだけで、生前、この男が生活を共にし、おのが信念を吹きこもうとした友や弟子たちはすべて彼を見棄て、逃亡していた。 
男は弟子たちが自分を見棄てただけではなく、裏切ったことも知っていた。弟子たちは彼と共に処刑されることを恐れ、自分たちの釈放を条件に彼を売ったのである。半生の間、愛してきたこの弟子たちの仕打ちは男の胸を引き裂いた。にもかかわらず、彼は十字架の上で、その彼等を恨むかわり、そのために必死で祈ったのである。
この臨終の有様を伝え聞いた弟子たちは、はじめておのれの卑怯さ、弱さに号泣した。良心の呵責を噛みしめながら彼等は故郷のガリラヤに戻ったあと、ふたたび思い出のエルサレムに集った。それが原始キリスト教団のはじまりとなった。
【中略】
イエスの死後、彼がキリストに高められるまでの短い歴史を調べたあと、私たちがぶつかるのは結局、この「なぜか」であり、そしてイエスの持つXである。 
この「なぜか」を素直に、謙虚に、考える時、私たちは次のような結論に達せざるをえない。たしかにイエスをキリストまで高めたのは弟子たちと原始キリスト教団との信仰である。彼等の意志によってイエスは人間を超えた存在に神格化されていった。イエスは「人の子」と言われ「神の子」となり、救い主と呼ばれ、そしてキリストになった。 
だがイエスを神の子にしたのは弟子たちだけではなかった。イエスにも、それに相応しいXがあったからこそ、彼は他の預言者たちと違った次元におかれたのである。人間が彼を聖なるものとしただけでなく、彼にも聖なるものとされるに価いした何かがあったのだ。 けれども原始キリスト教団史のもうひとつの問題はこうして弟子や信徒たちの信仰の対象になったキリストが必ずしも彼等の願い、要望に応えなかった点にある。
弟子たちは突きつけられた「神の沈黙」という謎を解くためイエスの再臨を考えるに至った。彼等は十宇架でみじめに死んだイエスがやがて栄光のキリストとしてふたたびこの地上にあらわれるのだ、と思うようになった。その希望はやがて彼等の信仰となり、彼等の結束の理由ともなった。 
だがそのキリストはあらわれなかった。弟子グループがユダヤ教徒に迫害され、ステファノが殺され、多くの信徒がエルサレムを棄てて各地に逃亡した時もあらわれなかった。ヤコブが神殿の城壁から突き落された時もあらわれなかった。ローマの大軍団がふたたびパレスチナを蹂躙し、エルサレムが恐怖と飢えとのなかで包囲された時もあらわれなかった。率直に言えば弟子たちの願いはすべて裏切られたのである。  
【中略】
ガリラヤで育ち、エルサレム城外で殺された、痩せた、手脚のほそい男。犬のように無力で、犬のように殺されながら、息を引きとるまでただ愛だけに生きた男。彼は生前、現実のなかで無力であり、ただ愛だけを話し、愛だけに生き、愛の神の存在を証明しようとしただけである。 
そして春の陽ざし強いゴルゴタの丘で死んだ。それなのに彼は弱虫たちを信念の使徒に変え、人々からキリストと呼ばれるようになった。キリストと呼ばれるようになっただけでなく、人間の永遠の同伴者と変っていったのである。「世の果まで私はお前たちと苦しむだろう」(パスカル『イエスの秘儀』)。それは人間がいかなる思想を持とうと、実はその魂の奥では変らざる同伴者をひそかに求めているからである。「我なくんば……」とパスカルはある夜、祈りつつそのイエスの声を聞いた。「我を求めることなし」 
人間がもし現代人のように、孤独を弄ばず、孤独を楽しむ演技をしなければ、正直、率直におのれの内面と向きあうならば、その心は必ず、ある存在を求めているのだ。愛に絶望した人間は愛を裏切らぬ存在を求め、自分の悲しみを理解してくれることに望みを失った者は、真の理解者を心の何処かで探しているのだ。それは感傷でも甘えでもなく、他者にたいする人間の条件なのである。  
だから人間が続くかぎり、永遠の同伴者が求められる。人間の歴史が続くかぎり、人間は必ずそのような存在を探し続ける。その切ない願いにイエスは生前もその死後も応えてきたのだ。キリスト教者はその歴史のなかで多くの罪を犯したし、キリスト教会も時には過ちに陥ったが、イエスがそれらキリスト教者、キリスト教会を超えて人間に求められ続けたのはそのためなのだ
「キリストの誕生」遠藤周作著より転載

イエスという人が実際にいた。そして十字架の上で死んだ。
そしてそれを素材として創作されたのが新約聖書なのだという見方です。
さらにイエスの弟子達がイエスの死後その生と死の意味をさぐりながら深めていったのが信仰の内部なのだという遠藤周作氏ならではの切り口です。
神秘の領域、神秘な故に無限、その神秘を浮き彫りにした筆力に敬服しました。
それにしてもこの小説を書くにあたって何百冊の文献を読んだのでしょうか。
遠藤周作氏のライフワークと言い換えてもよい一冊です。
この本の反響はすごいものがあったでしょうね・・・
無宗教の私としてはこの書を読んで本当に驚きを禁じ得ませんでした。

宇宙はいかに生まれたのか。
ある瞬間の大爆発で誕生したというビッグバン理論と、いや、永遠の昔から存在してきたのだという理論とのせめぎあいが科学者の間で続いたのは1951年の話です。
時のローマ法王ピウス12世が強烈にビッグバンに肩入れする演説を行ったそうです。 
宇宙誕生の瞬間がある、とすれば創造主、つまり神は存在することになるのだ、と法王の説くそんな理屈に波紋が広がりました。ビッグバン派の学者でさえ、バチカンが科学に口を挟んだと眉をひそめました。まして反対派は皮肉まじりに、なるほど、法王はかつて地球が静止しているという説(天動説)も支持したぐらいだからな、とかみついたそうです。

神は存在するのでしょうか・・・
もし神が存在するのであれば一つだけ神に願いがあります。
それは自分の葬式をみてみたいのです。
自分の葬式を見るということは、クリスマスキャロルの主人公のスクルージが体験したようにまさに自らの人生の成績表を見るのと同じです。
自分の人生がどのようなものだったのかを凝縮したのが葬式です。
もし誰も自分の死を誰も悲しんでいないとするならばそれはそれで地獄です。
でもそれはよしましょう。神にお願いするよりも日々人を慈しむことを心がけましょう。
人々を慈しむように心がけても見返りを期待しないことです。
打算的なふるまいは心を貧しくしますので・・・


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今日は武蔵嵐山に出没です。
この街は本当に食べるところがありません。
しか〜しtaxiの運転手さん情報によりますと大人気中華料理屋さんがあるとのとことです。
前回お邪魔したら休業日でした。
ということで今日は満を持してうかがいました。
今日のお店は「満腹ラーメン三宝」さんです。

住所: 埼玉県比企郡嵐山町川島2315-7
電話:0493-62-7746
定休日:水曜・第3木曜

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お店の外観です。

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店内の雰囲気です。

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今日のオーダーは埼玉ご当地B級グルメ王第三位に輝いた「嵐山辛もつ焼きそば」@650円です。
このお店はご主人と奥さん、そしてご子息と思しき3人で切り盛りしています。
このお店は私の育った下町のお店によく似ています。
というのも昼間だというのにお酒を楽しんでいる人が3組ほどおりました。
三組とも中華料理をオカズにお酒をグイグイといっています、いい感じですね。
見ていて心が休まります。

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待つこと10分で「嵐山辛もつ焼きそば」の着皿です。
見た目美味しいそう且bolumyです。
それでは実食です。
ウ〜ンマ〜イです。
特にモツが柔らかjuicyです。
辛さは激辛ではなくやや控えめですね。
しか〜しソースに辛味ってよく合うんですね、これはイケますよ。
さらにかなり多めに盛られた紅生姜がnice assistです。
ビールのアテでもいいのかもしれません。
むしゃむしゃと一気呵成に食べつつけているのですが、なかなかお皿の底がみえてきません。
どうしてなんだろうとふと考えていたら突然頭の中で店名がflashbackしました。
そうなのです、ここのお店の名前は「満腹ラーメン三宝」だったのですね。
食べ終わるのに一苦労しました。
すごいコスパですね、久々のくりびつてんぎょのいたおどろ!のlunchでございました。

それでは(^_-)