明智光秀の首塚の真実
玄八1
このパチリは明智光秀の首塚です。
山崎の戦いで敗れた光秀は、落武者狩に会い落命しました。
部下たちはその首を近江まで持ち帰ろうとしたのですが、間に合わず朝が開けてしまったのです。
その首を秀吉側に奪取されるのを恐れた家来たちは京都は祇園に近いこの地に埋めて隠ししたとのことです。
ちなみにお参りしているのは私の奥様です・・・
というのが今まで私の理解だったのですが違ったようです。

以下が事実のようです。
1582年6月2日、明智光秀は本能寺に宿泊していた主君織田信長を急襲し自害させました。
しかし、光秀は備中高松城から引き返した羽柴秀吉と6月13日に戦って敗れ、主従13騎で近江の坂本城を目指して逃れます。
そしてその途中、小栗栖(京都市伏見区)の竹やぶで地元の農民に脇腹を槍で貫ぬかられて重傷を負い自害をして家臣に首を打たせたと言われています。
光秀の首は家臣によって隠されたと言われていますが、吉田兼見という公家が記した「兼見卿記」によりますと光秀の首は6月15日迄に発見されています。
6月18日には粟田口(京都市左京区)で重臣の首とともに晒されました。
粟田口には粟田口刑場がありました。
ちなみに江戸時代には毎年3回この地で処刑が公開され、明治維新までに約15,000人の人が処刑されたと言われます。なぜ15000人という数字が出てくるかというと、刑死者の供養として、京都の各宗派寺院が1000人ごとに供養碑を建てたのですが、その数が明治までに15基建ったそうです。
晒されたのは数日で22・23日には近くに埋め塚を築いたことも記されています。
その塚は蹴上付近にあり三条通りの人家の裏にあると記されています。
その後江戸時代中期、安永〜天明初年(1770〜1780)に蹴上の塚にあった石塔婆がこの地に移されてきました。
以来この地が、明智光秀を弔う地として伝えられるようになり、光秀の首はここに埋められたと伝えらえています。
ということで明智光秀の首塚には首はないのですね。
光秀の首を埋めた塚の石塔婆が移築されただけですから。
ま万が一首まで移送しようとしても埋めてから200年もたてば首は溶けて土に帰していたのではと思います。
私たち夫婦はここにお参りに来るたびにこの祠の下に光秀の首が埋まっているのだと思い厳粛な気持ちで光秀の霊を慰めていたものです。

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ちなみに本能寺の変の顛末は、明智憲三郎さん(光秀の血筋を引く子孫)が明智家の名誉を晴らすために書かれた「本能寺の変・427年目の真実」という本のからの引用です。
当時の光秀は土岐一族という明智家の大元の一族が存亡の危機にさらされていたのです。
かかる中、信長は光秀に家康を本能寺に招くから、その期に乗じて暗殺するという指令を下しました。
これは信長にとって邪魔者の二人(家康と光秀)の排除計画なのですね。
即ち光秀に家康を暗殺させ、その領地今川を光秀に与えることで近江から移封し信長から遠ざけるという一挙両得なものなのです。
光秀は信長にとって有能な家臣でありながら排除したい家臣の筆頭でもあったのです。
光秀は考え抜いたあげくの起死回生の一撃は、信長から指示された暗殺プランの相手を家康から信長に変更することだったのです。
そしてこれは最終的には家康との密約になりました。
光秀は同盟している家康でさえ殺されるのだから遠からず自分も同じ目にあうと結論付けたのです。
本能寺の警戒レベルの低さは、家康暗殺計画のため、すなわち家康を油断させる為のものだったのです。

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今回この本を読み替えして光秀の動機がよくわかりました。
光秀の息子光慶(13歳)行く末を案じたことが謀反の最大の動機だったのです。
その背景にあるのは、この時、光秀は67歳と高齢だったことがあります。
彼の人生の残り火は、普通の父親と比べると極めて少なかったのです。
当時、信長の天下統一の野望が目の前に迫ってきていました。
このままいけば百年続く戦国が終わり平和な世になると信じていたのに、信長が唐突に中国征伐を目論んだ事に光秀の変心があったのです。
まさかこの年で異国の地で戦う事になるとは・・・
さら〜に、その延長線上にあるのは、子の代においては、もしかすると見知らぬ異国で滅亡する可能性もあり、信長の中国大陸征伐の前にこの流れを止めなければならないと熟考していたのです。
ところが今回の信長による家康暗殺に加わる事で、偶然にもその手の内がわかり、絶対に倒せない主君信長が無防備になることも分ったのです。
このチャンスを逃がしたら、もう二度とチャンスはない。
正に「時は今」と謀反を決断したのでした。
一方、今回の光秀の謀反で漁夫の利を得た秀吉ですが彼は彼で決定的な失敗を犯しています。
それは秀吉が存命中に自分の子や孫を殺した徳川家康を排除しなかったことです。
実際、徳川家康を討つ機会を逃した為に、一族の生存に対する責任を果たすことなくこの世を去っていきました。
那辺は歴史が証明しております・・・


コナズ珈琲にハマりました。
今日は次男の運転で出向きました。
今日のお店は「コナズ珈琲」小平店さんです。

住所: 東京都小平市鈴木町1-217-7
電話:042-342-0085
定休日:無休

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お店の外観です。

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店内の雰囲気です。

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メニューです。

今日のオーダー、ハワイアンBBQプレート@2,178円、ベーコンベネデイクト@1,518円、クラッシクホイップパンケーキ@858円です。
飲み物はモアナブレンド(フレンチプレス)@440、ノースショアブリーズ(フレンチプレス)@385円です。
今日はウィークデイでしたので込まないと思い、それでも安全を見て11時半につきました。
しか〜し、席に通されたのは71分後であります。
このような女性客に人気のお店は回転が悪いですね。

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待つこと2分でお水が到着しました。

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待つこと11分でベーコンベネデイクトが到着しました。
見た目美味しそうです。
それではぷっくりとした玉子を割って黄身をこぼれ落としました。
これだけで美味しさを感じます。
クリーミーで濃厚な オランデーズソースが玉子の黄身によく合います。
これはご機嫌な味わいです。

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時間差でハワイアンBBQプレートの到着です。
見た目、ゴージャスですね。
これは肉が美味しいです。
骨付きカルビはやはり鐵板の味わいです。
あんどパイナップルの付け合わせが良いアシストです。
コスパは悪い気がしますが味はイケテいます。

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食後のデザートのクラッシクホイップパンケーキです。
ここの生クリームはくどくなく且つ甘さ控えめで大大大好きです。

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これにそれぞれの珈琲のノースショアブリーズ(上図)、モアナブレンド(下図)を合わせると至福の時間が訪れます。飲み比べてみますとノースショアブリーズの方がこのパンケーキには合いますね。
ご機嫌なランチでした。

それでは(^_-)