徳川ケイキさんは偉かった
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今日は徳川慶喜さんの話です。
大河ドラマでは草剛さんが慶喜役を好演していますよね。

慶喜 (2)
徳川慶喜については、大正時代の教科書では「逃げ帰った」「罪を謝罪した」と薩長軍との戦いに敗れて逃げたあげく、城を明け渡した臆病者扱いをされており、情けない書かれようであります。
しかし現在の教科書を見てみると「フランス軍からの軍事援助を断って外国の介入を防ぎ、日本の独立を守ることにつながった名君」として書かれているのです。
そんな徳川慶喜さんについて書いてみます。
慶喜さんは明治時代に隠遁生活をしていた駿府においては、音読みでケイキさんと言われて庶民から親しまれていました。ここでは敢えてケイキさんと書きます。
私のケイキさんの評価は、とても頭がよく、この英明さによって先が見えてしまうという欠点を持った人であります。加えてこの人は生涯をかけて自らの命を守る事を徹底してやり通した人だとも思います。
このように書くと自らの保身のように思いますが、そうではなくて自分の事がとてつもなく好きだったのでしょう。
その為に自らが死と向き合うリスクを極端にまで避けてきたのだと思います。
例えば1867年10月14日の「大政奉還」ですが、大政奉還の数カ月前には反徳川雄藩連合の形成が急速に進んでいる情勢に気づいてケイキさんは警戒を強めていました。
土佐藩の申し入れの「大政奉還」を受け入れなければケイキさんはセゴドン率いる反徳川雄藩連合によって首を取られてしまうかもしれないリスクが訪れていました。
そこでケイキさんは、セゴドンの裏をかいて「大政奉還」を受け入れたのでした。
これには諸説ありますが、私の恣意的な意見であります。
ケイキさん不在の江戸で薩摩藩の挑発にのった旧幕府の家臣団が2カ月後のクリスマスの日に薩摩藩邸焼き討ちを強行したことから戊辰戦争に突入しました。
正月明けの4・5日で鳥羽と伏見で同時に起こった鳥羽・伏見の戦いにおいて旧幕軍は壮絶なる戦いの中を繰り広げるも連敗を喫してボロ負けとなってしまいました。
この時もケイキさん自慢のフランス式軍隊を率先して指揮していれば負ける事はなかったと思われますが、この時も先を読んでしまったのです。
この時のケイキさんは、大政奉還によって得られた慶喜政権というものは天皇の権威を掌中に収め、それに依拠することによってのみ成立していたものとしていました。
しか〜し、それを薩長等に譲り渡した時点で彼の政治生命は潰えたと判断したのでしょう。
完勝すればいいのですが、中途半端に負けたらその首を差し出さなければなりません。
ここで彼は前線で指揮することなく一目散に船にて江戸へ逃げ帰ったのです。
江戸に帰ってからはケイキさんの周辺には色々と良くないことが起こり、熟慮の末に勝さんと大久保一翁に事態収拾を一任して自らは上野の寛永寺大慈院において1人で謹慎を始めたのでした。
2月9日には東征大総督・有栖川宮熾仁親王に率いられた政府軍が東征を開始しました。
ここでケイキさんは勝さんに事態収拾を一任したのですが、大変なのは勝さんです。
1か月後の3月14日のホワイトデーに三田の薩摩屋敷で勝さんセゴドンと会談したのです。
勝さんはセゴドンに対して、もしケイキさんの首をとるなら東洋一の幕府海軍を率いて東海道を通り抜ける政府軍に対して駿河湾から艦砲射撃をして壊滅させる。
仮に運よく江戸に入ったとしても新門辰五郎(子孫は三社祭の総責任者)等の配下に銘じて江戸市中を火の海にしてしまうと脅したのです。
セゴドンも頭のキレる方ですから、勝さんが言っている事はブラフではないという事がわかり、当時すべての政治機能が集中している江戸が消滅したら、新政権の運営はできませんのでこれには慄然としたのであります。
そして江戸城無血開城とあいなったわけであります。
一方のケイキさんは、すでに寛永寺で謹慎しているわけですから、ここでも政府軍にそっ首を差し出すことはなくなりました
4月11日に東征軍諸兵が江戸城に入城し、城郭は尾張藩、武器は熊本藩が管理することになり、江戸城は開城されました。4月21日には東征大総督の有栖川宮熾仁親王が江戸城に入城したのです。
ここに徳川幕府は名実ともに滅びさったのです。
以後、幕府制度や征夷大将軍の官職は廃止され、これによりケイキさんは日本史上最後の征夷大将軍となったのであります。
この歴史の政変劇は前年の10月から4月までのわずか7カ月間で終了したのです。
そして7月にはケイキさんは静岡に移り謹慎生活に入ったのです。
翌年の明治2年(1869年)5月に函館は五稜郭で戦っていた榎本一党の降伏をもって戊辰戦争は終結しました。
この時に土方のトシさんは鉄砲で撃たれて戦死しております。
勝さんや大久保一翁ら旧臣が三条実美や大久保利通などの政府高官に働きかけた結果、この年の9月にはケイキさんの謹慎が解除されたのです。
わずか2カ月の謹慎生活でした。
謹慎が説かれた背景は、当時の新政府は地方政治の経験しかなく、旧幕府の実務に長けた人材を取り込んで、行政を円滑に進めるために旧幕臣の主君であるケイキさんの謹慎を解く必要があったというのが本当の理由であります。
その後は月2,000万円位のお金を徳川本家から頂いいましたが、ケイキさんの家は使用人が多くその生活はカツカツでした。
元部下の渋沢栄一さんが株の投資(今でいうインサイダー取引)でケイキさんの資産を増やしていったのです。
その後は趣味の銃猟・鷹狩・囲碁・投網・鵜飼をやっており、明治6年以降になると謡曲・能・小鼓・洋画・刺繍・将棋とその趣味を一段と増やしていきました。
さら〜に、静岡時代にケイキさんは子作りに励み10男11女を儲けています。
21人の子持ちというのは流石にすごいですね(笑)
ちなみに産んだのは正妻ではなくてお2人の側室さんです。
それから時計の針がギュンと飛んだ24年後の明治30年には、ケイキさんは60歳になりました。
この年に東京に移住したのです。
この移住には色々な背景があるのですが、最大の理由は、病気に冒されたときの医療看護の便を考えてのことであります。当時の東京は医療が日本で一番進んでいた都市だったのです。
これは今でもそうですが。
ここでもケイキさんの命大事ということが伺えます。
明治31年3月ケイキさんが61歳になった時には明治天皇陛下と会談して朝敵としての汚名が晴らされたのでした。それから4年後の明治35年にはケイキさんは公爵を受爵しました。
ここで初めてケイキさんは、大政奉還が近代天皇制国家の発展につながったという揺るぎない自信をもつようになりまして、35年間という永きに亘って続けていた自己韜晦(自分のあらゆる面をつつみかくすこと)を止めたのです。この間に将軍時代の愚痴や不満をいうと、そのそっ首が飛ぶかもしれないという事でひたすら沈黙を続けていたのであります。
ここらあたりで部下であった渋沢栄一さんがケイキさんに永年お願いしていた伝記編纂にも協力的になってきたのです。
これも公爵になり名誉回復が叶い世間的なケイキさんの評価も変わってきたことで自らの過去に向き合う精神的な余裕ができてきたのだと思います。
ここらでストレスがぬけたのでしょうか。本当に永かったですね。
最後の将軍であるケイキさんは、辛亥革命による清朝崩壊・中華民国成立(1911年〜1912年)やタイタニック号沈没事故(1912年)の時にもなお存命で、年下の明治天皇より長生きして大正時代の到来を見届け、大正2年(1913年)11月22日、(急性肺炎を併発した)感冒のために享年77(満76歳25日)歳でこの世をさりました。
元部下の渋沢栄一さんが編纂した「徳川慶喜公伝」では、「侮辱されても国のために命を持って顧みざる偉大なる精神の持ち主」と、最高の敬意で締めくくられています。
まさしくその通りであります。
そして今日の日本があるのははるか昔にケイキさんが「大政奉還」を受け入れた事で近代日本の扉が開きました。まさしく大恩人と申し上げても良いでしょう。
という事で長くなりましたがケイキさん話でありました。


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今日はアニメの街大泉学園に出没です。
今日は昭和の喫茶店にお邪魔しました。
という事で今日のお店は「喫茶アン」さんです。

住所: 東京都練馬区東大泉1-30-3
電話:03-3921-6909
休日:ほぼ年中無休

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お店の外観です。

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店内の雰囲気です。

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メニューです。

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これのおかげで店内は満席が続いております。

今日のオーダー「ランチドライカレー」@880円です。

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座るやいなやお水が到着しました。

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待つこと7分でサラダが到着しました。
最近のサラダは美味しいですね。
ご機嫌です。

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待つこと19分でドライカレーが到着しました。
今日のドライカレーはスーパーホットあんど福神漬けでお願いしました。
お願いが通ったみたいで福神漬けがかなりの固まりお皿の上部に乗っています。
これはうれしいですね。
福神漬けは大好物なのであります。

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それでは実食です。
ベーコンにピントを合わせたのですがブレてしまいました。
あいすみません。
今日のドライカレーはかなりの辛さです。
口から火がでてきました。
このくらいが私の好みなのです。
とても美味しいですね。
ベーコンも美味しいです。
ピーマンは箸休めとして食べています。
今日のドライカレーは今まで食べていた中で最高のデキでした。

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食後の珈琲もご機嫌です。
心地よい珈琲は私の気持ちを元気づけてくれます。
窓から通りに目を落としますと、道行く人が別世界の人のように思えます。
ここだけが私の天国なのです。

それでは(^_-)