今日は「センチメンタルジャーニー 其の四」です。
今回の旅行の地は大学の頃、友人と行った観光名所なのですが、休憩してはちょっと飲み、休憩してはちょっと飲みで、旅行しましたという思い出は残ったものの、ほとんど酔っていて記憶に残っておりませんでした。
そこで今回はそのリベンジということで奥様を誘い「安芸の宮島・厳島神社と原爆ドームと平和記念公園二日間」という旅行に参加しました。
今日は二日目です。
今日は平和記念公園です。
ここは二回目の見参です。
しか〜し前回の時、原爆ドームは改修中でしたので、ただ車で通る時にその存在を確認しただけです。
宜しかったらお付き合いください。

#原爆ドーム
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原爆ドームは、1945年(昭和20年)8月6日、爆心地からわずか160メートルの至近距離で被爆しました。
ほぼ真上から爆風が到達したため、建物の壁の一部は崩壊を免れたそうです。
原爆炸裂後の1秒以内には3階建ての本体部分がほぼ全壊、という凄まじい威力を物語っています。
ドームが全壊しなかったのは、衝撃波を受けた方向が真上だったことの他に、窓が多いために爆風が窓から吹き抜けた、ドーム部分の構成材が銅板であった事等の要因が重なったことが理由に挙げられています。
補足しますと、銅は鉄に比べて融点が低いため、爆風到達前の熱線により屋根が融解し、爆風が通過しやすくなったようです。
しか〜し建物内で勤務していた内務省(建設省)職員ら約30名は、爆発に伴う大量放射線被曝や熱線・爆風により全員即死したと推定されています。
実は非常識なのですが、私はこのドームに入場ができて、中に資料館があると今日の今日まで思っていたのです。今回の来広で自らの不明が正されて良かったと思っています。

#千羽鶴
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爆心地から北方約2キロメートルの広島市内三篠町の自宅 で2歳のとき被爆した広島の小学6年生の少女佐々木禎子さんは、1955年2月に急性リンパ腺白血病と診断されて、広島赤十字病院に入院しました。
その禎子さんは、千羽鶴を折れば、願いが届くと祈りながら鶴を折り始めましたが、願いもむなしく55年10月25日原爆症で12歳の人生を閉じました。
禎子さんは644枚を折りあげて亡くなり、残りの356枚は彼女の同級生によって折られ、彼女と一緒に埋葬されました。
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爾後、多くの方が千羽鶴を折り「原爆の子の像」に自由に捧げることができるようになったようです。
一時期その千羽鶴は焼却処理をされていたのですが、現在では再生紙(絵葉書)として利用されています。

#平和の火
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水を求めてやまなかった犠牲者を慰め、核兵器廃絶と世界恒久平和を希求するために作られました。
台座は、手首を合わせ、手のひらを大空にひろげた形を表現しているそうです。
ちなみにこの炎は、世界中から原爆が無くなった日に消えることになっています。
世界の国から核爆弾が無くなる日はいつでしょうか・・・

#原爆死没者慰霊碑
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世界最初の原子爆弾によって壊滅した広島市を、平和都市として再建することを念願して建立されたこの碑は、東京大学教授(当時)丹下健三さんが設計したものです。
原爆犠牲者の霊を雨露から守りたいという気持ちから、屋根の部分がはにわの家型をしています。
碑には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という碑文がきざまれており、中央の石室には、国内外を問わず、亡くなった原爆被爆者の名前を記帳した原爆死没者名簿が納められています。
名簿は関係者の申し出により書き加えられ、平成27年(2015年)8月6日現在で、109冊(297,684人の名前が記帳された108冊と「氏名不詳者多数」と記された1冊)になっています。
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2016年5月27日、オバマ大統領が、現職米大統領として初めて被爆地・広島を訪問しました。
平和記念資料館を見学した後に原爆死没者慰霊碑に献花されました。当初の予定では数分と言われていたにもかかわらず、17分に渡って語られたその素晴らしいスピーチは、私たちの心を強く揺さぶりました。
そして被爆者の森重昭さんをしっかりと抱き寄せたシーンは、多くの人の 胸を打ち、思わず涙してしまった人も多かった事でしょう。

#広島平和記念資料館
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広島平和記念資料館は、原子爆弾による被害の実相を世界中の人々に伝え、ヒロシマの心である核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に寄与することを目的に、1955年(昭和30年)に開館したのです。
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、広島は世界で初めて原子爆弾による被害を受けました。
まちはほとんどが破壊され、多くの人々の生命が奪われました。
かろうじて生き残った人も、心と体に大きな痛手を受け、多くの被爆者が今なお苦しんでいます。
平和記念資料館は、東館・本館からなり、被爆者の遺品や被爆の惨状を示す写真や資料を収集・展示するとともに、広島の被爆前後の歩みや核時代の状況などについて紹介しています。
実はここも始めてだったのです。
時間の関係で中はじっくりと見られなかったのですが雰囲気だけで心が押しつぶされました。

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爆心地です。

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この画像はガイドさんが是非見てくれといったものです。
これは朝炊いたご飯が熱風によって炭化したものです。

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オバマ大統領のメッセージと自らが折った千羽鶴です。
私はガイドさんに、オバマ大統領のスピーチは素晴らしかったが広島に対する謝罪がない、と申しましたら、アメリカの大統領ですからあそこまでがギリギリだったのでしょう。
広島市民としては、アメリカが広島原爆投下に対してしっかりと向き合ってくれただけで由としますよ、と優しく答えていたのが意外でした。

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1955年(昭和30年)には丹下健三さんの設計による広島平和記念公園(平和公園)が完成しました。
この公園は、原爆ドームを北の起点として平和の火・原爆死没者慰霊碑・広島平和記念資料館が南北方向に一直線上に位置するよう設計されており、原爆ドームをシンボルとして際立たせる意図があったようです。

日本の戦況が圧倒的に不利な中、アメリカは戦争終結手段として、日本本土上陸作戦、ソ連への対日参戦の要請、天皇制存続の保証、原爆の使用という選択肢がありました。
こうした状況の下、原爆投下により戦争を終結する事ができれば、戦後ソ連の影響力が広がるのを避けられ、また膨大な経費を使った原爆開発を国内向けに正当化できるとも考えたのだそうです。
広島を第一目標としたのは、目標都市(広島、小倉、新潟、長崎)の中で唯一、連合国軍の捕虜収容所がないと思ったためです。
いずれにしても1945年12月末までに約14万人の尊い命が失われたのです。
戦後70年経て、当地広島でも被爆者の方々も第三世代から第四世代に入り、戦争そのものが風化しています。
特に若い人からは、原爆のこと、戦争のことはわからない、との発言が多くなっています。
個人的には非常な苦痛を被った被爆者達の記憶を後世に伝える事が、核の破滅から私たちを守ってくれる事だと信じています。
人類の過去の記録に向き合う事で、未来が広がる事を祈りましょう。
そしてある被爆者の方が言われていた、辛い時には笑顔でふるまうのだ、が心に深く突き刺さりました・・・
最後に亡くなれた無辜(むこ)の被爆者の方々に合掌・・・


一応B級グルメブログなので食べ物の話を・・・
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平和記念公園を後にしました私たちは一路広島駅に向かいました。
そこでお弁当とお土産を買いました。
今日のお店は「むすび むさし」新幹線店さんです。

住所: 広島県広島市南区松原町1-2 広島新幹線名店街
電話:082-261-0634
定休日:無休

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お店の外観です。

今回のお弁当は「清盛むすび」@1,000円です。
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ご飯は銀シャリの大きなむすびが2つ入っています。
おかずには煮物や揚げ物、酢の物が入っています。
そしてなんと広島名物「もみじ饅頭」が入っていいます。
小鰯の天ぷらや、定番の蓮根の煮物、濃い味付けのこんにゃく等定番のメニューも入っていて充実度満載です。
味ですか、小鰯の天ぷらが魚臭くていけません。
名物の銀シャリの大きなむすびは美味しいですね。
個人的には小鰯の天ぷらの代わりに唐揚げにすればよかったのにと思いました。
まぁ、広島名物じゃけん、食べてきんさい的な観光名物的お弁当でしょう。
まずまずのお味でしたよ(笑)
広島一のお弁当を食べられてプチ満足でした。

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ということで広島からは最終の新幹線に乗り、帰宅したのは0時近くでした。
今回は私の思い出巡り旅でしたが期待をはるかに超えたものでした。
特に今まで広島平和記念公園に行ってなかったのは、私のモラル・バックボーン(道義的脊髄)を脆弱にしていました。今回の旅行で私の長年の宿痾(しゅくあ)が寛解(かんかい)したような気持ちになりました・・・

それでは(^_-)