今日は「史上最強伝説」の話です 
IMG_6709 
花形敬という男がいました。復興途上だった戦後の渋谷の盛り場を制覇したのは、暴力団安藤組。花形敬はその安藤組の大幹部でした。力道山より喧嘩の強かった男、あの戦後の混乱期を腕力ひとつで、強くより強くと生きた男です。
なんでこの花形敬を知り得たかといいますと社会人になった時の上司が明治大学ラグビー部卒でよくこのラグビー部の先輩(花形敬)の話をしていたので記憶に残っていたのです。

このblogは基本的にピカレスク系は厳禁なのです。
しかし資料を調べていたら面白かったのですね、本当は載せたくはなかったのですが戒(いまし)めをあえて破りアップして見ました。まずは国士舘中学時代のStreet fightから。

本田靖春の著書「疵」より、花形の学生時代(旧制の中学生時分)の喧嘩の様子を、当時一緒につるんでいた石井氏のインタビューの紹介です。
玉電下高井戸線の上町に青葉学園という女学校がある。
同じ沿線のよしみで、そこの不良少女二人が国士舘の校門近くに、自分たちの学校のバザー券を売りにきた。
石井は仲良くなるのにいい機会だと思ったが、女の子が相手だと急に内気になって口もきけない。
そこで、その方面に達者な西田という四年生(旧制)を使って、こう言わせた。
「あそこにいる石井さんというのが、切符を全部捌いてやるから、そのかわりおたくたちに映画を付き合ってもらいたい、といっているんだけど、どうだい」
取引は簡単に成立した。
「いいわよ」
という返事で、次の日曜日、二対二のデートが実現する。
渋谷のハチ公前で落ち合い、映画館に入ったが、石井には女の子と並んで座席につく勇気がない。彼女達を一列前に座らせ、映画が終わって立つ寸前のどさくさに、うしろの席から声を忍ばせて、次回の約束を取り付ける純情さであった。
バザーの当日、石井は花形と連れ立って青葉学園に出掛けた。石井がお目当ての女の子をきょろきょろ探しているあいだに、花形が明大予科の三人連れに喧嘩を売られた。
花形はそのころすでに1メートル82センチの背丈があって、いやでも目立つ。
「私、ちょっと離れたところにいて、本当は花形のこと嫌いなんだけど、知らんぷりしてたらあとからしかられちゃうから、行ったわけなんです。おれ行ったら、わざと俺のこと、 『石井ちゃん』なんていって、『石井ちゃんはいいから彼女でも連れて見てなよ』『いいから、いいから』って、こうなんです。」
相手は三人掛かりで、『ちょっと来なよ』と、校庭の隅の方に花形を連れて行こうとした。
行くも行かないも、その途中で最初の野郎が花形のフックか何かあごのところに一発喰って、気絶しちゃった。
そういうとき、花形は凄い顔しちゃうもんね。マムシみたいな顔するんです。おれら、かげで花形のこと、マムシって呼んでたんだから。
この野郎! なんて、そんな生易しいあれじゃないんです。かりに花形より喧嘩の強い相手でも、ああいう顔されちゃったら、とてもじゃないけど向かえないもんね。
ほんで、あのごつい身体で、大きい技をするんです。脚をぐっと開いて、腰を入れて、死んじゃうかと思うくらいの殴り方なんですよ。そいつがあごにバーンと入って、一発でひっくり返っちゃった。最初の野郎が。
それからもう一人の奴をね、やっぱり蹴りは使わなかったもんね。手だけですよ。簡単に片付けたんですよ。
残った最後の奴を、今度は一発で倒さないで、パン、パンと左ジャブで追い込んでおいてから、右のストレートで素っ飛ばした。ドーンと飛んじゃったですよ。でっかい野郎が。
大学生三人を中学生の花形がやっつけるのに、一分とかからなかった。何秒ですよ。ほんの何秒。


さらに同じく石井さんからの話で明治大学に進学したときのepisodeです。
花形は23年4月明大予科へ入学した。国士舘中学では、近隣の中学の不良グループを平定したもの、やはり悪行のため中途退学の道が待っていたが、ラグビー部の線で引っ張られたのか、とにかく明治に入ったのは事実だった。
たちまち、和泉校舎(1・2年生の一般教養)に凄え奴がいるという噂が立って、駿河台から番長がやってきた。なにしろ予科の運動部の猛者連、空手部、柔道部、拳闘部、その他もろもろの連中が音をあげているのだ。そしてここでも花形は伝説的に語られることになる。
番長格は、花形を和泉校舎の屋上へ呼びつけた。おそらく彼は、花形のことはかなり耳にしてきたに違いなかった。番長格は、花形と対峙するなり、隠し持っていた拳銃を突きつけて脅しにかかった。
だがその瞬間だった。花形の長い脚の先がそれを捉えていた。拳銃は蹴りをくらって宙に舞い、それがコンクリートの上で乾いた音を立てた時、番長格の姿も長々と伸びて転がっていた。

「花形敬のスカーフェイス11」参照

花形は千歳中学時代にラグビー部の創設にかかわり、千歳中学が翌年に全国大会に出場したとき主力の一人となるはずだったそうですが、5年生の時天井で煙草を吸っていたことが発覚し無期停学になり、そして国士舘中学に来たわけですが、このころには経堂にある成城拳闘クラブでボクシングにも励んでいました。
その後上述の通り明治大学予科に進学しラグビー部に所属していましたが、同部の故・北島忠治監督によると「記憶にない」ということです。 

IMG_6701 
昭和38年9月28日付け読売新聞朝刊 「川崎発」
27日午後11時15分ごろ神奈川県川崎市二子56さき路上で、2人組みのヤクザふうの男と口論していた男が、二人組みの男の一人から鋭い刃物で心臓を突き刺されて間もなく絶命した。殺された男は持っていた自動車運転免許証から東京都世田谷区舟橋町1094、花形敬さん(33)とわかった。
ちょっと字が小さくて見にくいのですが、この記事には次のような記載もあります。
たまたまこの抗争事件を目撃していた田口忠順さん(23歳)、高校生の前田松男君(18歳)、前田君の近所の高校生の三人組、はこの二人組を追跡したのです。そして50M先で追いつたものの、最後は振り切られてしまいました。そして逃げていく車中から発射された銃弾により田口忠順さん(23歳)は悲惨なことに腹部貫通の重体になったのです。
私は初めてこの記事を見たとき、三人組の行動に本当に驚いたのです、暴力団の抗争事件に一般人がその犯人を捕まえようとして大怪我をしたのですよ。
信じられません、昔の日本の男性は胆力があったというか正義感が強いというか、日本は良い国です、これが日本だ私の国だです、おおいに感動してください!

閑話休題。
ざっとこのような人生なのですが、花形家は二十代四百年の歴史を持つ東京世田谷の名家です。一族の血を遡れば武田信玄麾下の武将に行きつくといいます。父はワシントン州立大学で学び母と結婚した後はシアトルで暮しています。いわゆるセレブの家の出自であるといえいます。
忖度するに、名家の生まれでもあり、羊の様な優しい性格でもあったことから、自己韜晦が強くなりすぎ、何かのキッカケで暴力によって自己表現ができることを体感し、このような人生を歩んだのではないでしょうか・・・


今日のお店は水道橋No.1の焼鳥屋「Re時屋(りときや)」さんです。

住所: 東京都千代田区三崎町2-21-9 田島ビル1F
電話:03-5211-8388
定休日:日曜日・祝日

IMG_6151
お店の外観です。ちなみに店名の「Re時屋(りときや)」さんは、反対からよむと「焼鳥(やきとり)」になるというすこしwitのきいたnamingです。

IMG_6157 
店内の雰囲気です。14時半頃訪れたので客は私一人でしたので、寂しい感じが横溢していましたが落ち着いた感じのお店です。

IMG_6155

IMG_6156
今日のオーダー「焼鶏丼+鶏スープ」@690です。
焼鳥丼はすご~~っく美味しいというわけではないのですが、@690でこの味なら申し分ありません。鶏スープがかなりのlevelなので、風評通りの実力店かもしれませんネ・・・
何れにしても鼎(かなえ)の軽重を問うのは、夜の部のようですので機会を見て再訪してみますか。

それでは(^_-)